2025年09月25日
お笑いコンビ「ニューヨーク」の屋敷裕政氏が、自身のラジオ番組で「推し活やSNS叩きは、工場でネジを作っているような人がやっている」と発言したことは、一部で大きな波紋を呼んでいます。この発言は、労働や価値観の多様性に対する無理解や、特定の層への侮蔑と受け取られかねない挑発的なものでした。しかし、その表面的な物議を超えて、現代社会における「人生をどう生きるか」という根源的な問い、とりわけ「消費」と「創造」のパラドックス、そして「自己実現」のあり方について、極めて鋭い示唆を与えていると分析できます。本稿では、屋敷氏の発言の真意を多角的に掘り下げ、現代人が「人生を生きる」とはどういうことか、その本質に迫ります。
記事冒頭の結論:屋敷氏の発言は、現代社会における「内発的動機」の欠如と、他者への依存による「虚構の充実感」への警鐘であり、真に人生を生きるためには、消費を超えた「創造」と「自己定義」への主体的な希求が不可欠であるという、挑発的かつ核心的なメッセージを投げかけています。
屋敷氏の発言の解剖:労働、消費、そして「人生を生きる」の定義
屋敷氏の発言の核は、提供された情報にあるように、以下のように集約されます。
- 大半の労働者は自分の人生を生きていない。
- 例:工場でネジを作っている人
- 推し活をする人も自分の人生を生きていない。
- 一方で、農家や芸人は自分の人生を生きている。
ここで重要なのは、屋敷氏が「人生を生きる」ことの基準として、「自らの意志や情熱をもって、自己の裁量と創造性をもって主体的に、そして他者への貢献を伴う活動に従事しているか」を置いている点です。
「工場でネジを作る」:システムへの組み込みと「他者」への奉仕
「工場でネジを作る」という比喩は、高度に分業化・標準化された現代の産業構造における労働の側面を端的に表しています。ここで「ネジ作り」が「人生を生きる」ことと対置されるのは、その労働が、個人の内発的動機(intrinsic motivation)よりも、外発的動機(extrinsic motivation)、すなわち賃金や生活維持といった外部からの報酬によって規定されやすいからです。
哲学者ハンナ・アーレントは、その著書『人間の条件』において、人間の活動を「労働(labor)」、「仕事(work)」、「活動(action)」の三つに分類しました。
- 労働(labor): 生命維持に必要な生物学的プロセス、すなわち「生きる」ことそのもの。労働は、その性質上、常に繰り返し行われ、消費され、再生される。「食事を摂り、眠り、繁殖する」といった活動がこれに当たります。
- 仕事(work): 世界を構築し、永続性を持つ人工物を生成する活動。これには、道具の製造、住居の建設、芸術作品の制作などが含まれます。仕事は、人間が「世界的(worldy)」であるための条件となります。
- 活動(action): 人間が他の人間と直接関わり、自己の「自己(self)」、すなわち自己のアイデンティティや固有性を表明する活動。これには、政治的行動、言語によるコミュニケーション、そして他者との関係構築が含まれます。活動は、人間の「多様性(plurality)」を顕現させます。
屋敷氏の言う「工場でネジを作る」ことは、アーレントの分類で言えば、生命維持(労働)のために必要不可欠であり、世界を構築する(仕事)一端を担っているとも言えます。しかし、その活動が「個人の主体性や固有性の発露、あるいは他者への直接的な働きかけといった「活動」の要素を欠き、単にシステムの一部として、より大きな目的(製品の生産)のために遂行されていると捉えられた場合、「人生を生きている」というよりは、「システムに組み込まれて、生命を維持・消費している」状態に映るのでしょう。これは、労働の疎外(alienation of labor)というマルクス主義的な問題提起とも共鳴します。
「推し活」:消費文化の極致としての「虚構の充足」
一方、「推し活」を「ネジ作り」と同列に置くことは、現代の消費文化がもたらす「虚構の充足」への批判として解釈できます。推し活における「推し」は、多くの場合、メディアやSNSを通じて消費される偶像であり、ファンは、その偶像への「貢献」(課金、応援、情報発信など)を通じて、間接的な自己肯定感や充足感を得ようとします。
経済学的には、これは「消費」が「自己実現」の主要な手段と見なされる文化の表れです。消費社会論の大家、ジャン・ボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』において、現代社会では「モノ」がその機能的価値ではなく、「記号的価値」、すなわち「差別化」「ステータス」「アイデンティティ」といった意味合いを付与されることで消費されると指摘しました。推し活もまた、単に「好き」という感情を超え、特定の推しを応援することで、自身のアイデンティティを形成したり、コミュニティに属したりする「記号的消費」の側面を強く持っています。
屋敷氏の発言は、この「推し活」が、自身の内面から湧き上がる創造的な活動や、主体的な人生設計とは異なり、外部の対象(推し)への消費と依存に終始し、それによって得られる充足感が、ある種の「虚構」であると見抜いているのかもしれません。これは、「他者の人生(推しの人生)を生きる」ことで、自身の人生を生きることから逃避しているという解釈にも繋がります。
「農家」と「芸人」:内発的動機と「活動」の具現者
対照的に「農家」や「芸人」を「人生を生きている」と称賛する屋敷氏の視点は、彼らが持つ「内発的動機」の強さと、「活動(action)」の要素を重視していることを示唆します。
- 農家: 自然と向き合い、作物を育てるという営みは、その成果が外部要因(天候など)に左右されるにも関わらず、自らの手で生命を育み、大地に根差した活動です。そこには、「創造」と「生命」への直接的な関与があり、また、食料という形で他者への貢献が明確に存在します。これは、アーレントの言う「仕事」と「活動」の要素を強く含んでいます。
- 芸人: 芸人は、自己の身体、言葉、思考といった、最も個人的で固有な要素(「自己」)を直接的に他者(観客)に提示し、笑いや感動といった感情的な反応を引き出す「活動」そのものに従事しています。その根幹には、「人を笑わせたい」「表現したい」という強い内発的動機があり、成功は他者からの直接的な承認(拍手、評価)によってもたらされます。これは、アーレントの「活動」の典型例と言えるでしょう。
これらの職業は、単なる「労働」や「消費」に留まらず、自己の存在意義を賭け、他者との相互作用の中で自己を確立していくという、より根源的な人生の営みを体現している、と屋敷氏は捉えているのではないでしょうか。
「人生を生きる」とは何か?:主体性、創造、そして「他者」との関わり
屋敷氏の発言を深掘りすることで、「人生を生きる」ことの本質は、「外からの指示や消費に依存するのではなく、自らの内から湧き上がる情熱(内発的動機)に従い、主体的に創造し、他者との相互作用の中で自己の存在意義を確立していくプロセス」にあると結論づけられます。
労働の再定義:意味と誇りの創造
「工場でネジを作る」ような仕事が、必ずしも「人生を生きる」ことと無縁ではないことも、ここで強調すべきです。もし、そのネジが社会インフラの重要な一部を支えていると「意味づけ」、自身の仕事に「誇り」を持つことができれば、それは単なるルーティンワークを超え、主体的な営みとなり得ます。これは、「自己定義(self-definition)」の重要性を示唆しています。職務内容そのものに創造性が乏しくても、その仕事が社会に果たす役割を理解し、自身の貢献を認識することで、労働者は「システムの一部」から「意味ある活動の担い手」へと自己認識を変容させることができます。これは、「創造」が必ずしも「無から有を生む」ことだけを指すのではなく、「既存のシステムや役割に意味を見出し、そこでの自己の役割を再定義する」ことにも含まれるという、より広範な視点です。
推し活の再定義:消費から創造への転換
推し活もまた、その在り方次第で「人生を生きる」営みになり得ます。例えば、
- 創作活動への昇華: 推しへの愛情を原動力に、二次創作(イラスト、小説、音楽など)を制作し、自身の創造性を発揮する。
- コミュニティの活性化: 推しを応援するコミュニティ内で、イベントを企画・実行したり、情報共有のハブとなったりすることで、他者との積極的な関わりを生み出す。
- 自己成長への活用: 推しの活動から学びを得て、自身のスキルアップや知識習得に繋げる。
これらの活動は、単なる「消費」から「創造」と「活動」へとシフトし、自己のアイデンティティを強化し、他者との関係性を豊かにします。
SNSの光と影:情報消費から「関係性」の構築へ
屋敷氏の「SNS叩き」という言葉は、SNSがしばしば、匿名性や距離感から、他者への攻撃や誹謗中傷といったネガティブな「活動」の温床となりうることを示唆しています。しかし、SNSの真価は、その情報伝達能力にあります。
- 情報消費: 単に情報を「受け取る」だけでは、屋敷氏の言う「ネジ工場」と同様、受動的な状態に留まります。
- 情報創造・発信: 自身の経験や知識、意見を発信することで、他者との「関係性」を構築し、共感や議論を生み出すことが可能です。これは、アーレントの言う「活動」の場となり得ます。
- 学習と成長: 専門家や多様な意見に触れることで、自身の知識や視野を広げ、内発的な成長を促すことができます。
SNSを「情報消費」の場に限定せず、「関係性の構築」「自己表現」「学習」の場として捉え直すことで、それは「人生を生きる」ための強力なツールとなり得ます。
現代社会が直面する「内発的動機」の危機
屋敷氏の発言は、現代社会における「内発的動機」の危機を浮き彫りにしているとも言えます。経済成長が成熟し、物質的な豊かさが一定水準に達した現代では、人々は「何のために生きるのか」「何に情熱を傾けるべきか」という問いに直面しています。その問いへの答えが見出しにくい状況で、手軽に充実感を得られる「消費」や「他者への依存」(例:推し活、SNSでの承認欲求)に流れてしまう傾向があるのではないでしょうか。
「工場でネジを作る」ことと「推し活」を同一視したのは、両者とも、「外部のシステムや対象に依存し、自らの内側から湧き上がる創造的なエネルギーを十分に発揮できていない」という共通項を見出したからだと推測されます。これは、現代社会における「自己実現」のあり方が、内面的な探求や創造から、外部への消費や承認へと、ますますシフトしていることへの危機感の表れとも言えるでしょう。
結論:自己定義と創造への主体的な希求が、人生を「生きる」ための羅針盤となる
ニューヨーク・屋敷氏の「推し活やSNS叩きは工場でネジ作っとるような人がやっとる」という発言は、その過激さゆえに多くの議論を呼びましたが、現代人が「人生を生きる」ことの意味を問い直す上で、極めて重要な論点を提供しています。
真に人生を「生きる」ということは、単に生命を維持し、消費活動に没頭することでも、他者の人生に没入することでもありません。それは、自らの内発的動機に基づき、情熱を傾けられる対象を見出し、主体的に創造し、他者との相互作用を通じて自己の存在意義を確立していく、能動的で、そして終わりのないプロセスです。
- 「ネジ工場」の労働者も、その仕事に意味と誇りを見出し、社会への貢献を認識することで、「人生を生きる」営みへと昇華させることが可能です。
- 「推し活」も、単なる消費に留まらず、創作活動やコミュニティへの貢献へと転換させることで、自己実現の源泉となり得ます。
- SNSは、情報消費の場から、自己表現と関係性構築の場へと意識的に活用することで、人生を豊かにするツールとなり得ます。
屋敷氏の挑発的な言葉の裏には、現代社会の「消費」「他者依存」という安易な充足感に溺れず、「自己定義」と「創造」への主体的な希求こそが、真の「人生を生きる」ための羅針盤となる、という力強いメッセージが込められているのです。このメッセージを咀嚼し、自身の人生における「内発的動機」と「創造」のあり方を深く探求することが、現代を生きる我々に課せられた、最も本質的な課題と言えるでしょう。
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