冒頭:中国エンタメ界における「呉京現象」の表層と深層
近年、中国のエンターテイメント界、特にナショナリズムを基調とした映画産業において、俳優・監督としての呉京(ウー・ジン)氏が体現する「英雄」像は、かつてないほどの熱狂を生み出した。しかし、2025年現在、その人気はかつてないほど多様な視線に晒されており、彼の「愛国」を旗印とした成功の裏側で、社会の価値観の変化と、それに伴う「英雄」像の相対化が進んでいる。本稿では、「この世界は変わった」というテーマを掲げ、呉京氏が「道化師」として揶揄されながらも、しばしば「神」のごとき神格化を享受してきた(そして、もしかすると自己神格化をも図っている)現象を、社会学、メディア論、そして大衆心理学の観点から多角的に、そして専門的に深掘りする。結論から言えば、呉京氏の「神格化」は、単なる個人への熱狂ではなく、中国社会が経験した急速な経済成長とそれに伴うイデオロギー的変遷、そして情報化社会の進展が生み出した、複雑な社会現象の鏡像なのである。
1. 評価の変遷:ナショナリズムの「効用」と「限界」
呉京氏のキャリアは、中国の「ソフトパワー」戦略、特に「愛国主義」をエンターテイメントに組み込む試みと軌を一にしている。『戦狼』シリーズに代表される彼の作品は、中国の国際社会における地位向上、そして国内におけるナショナル・アイデンティティの強化という、時代の要請に応える形で絶大な支持を獲得した。しかし、その成功の陰で、彼の言動や作品に対する批判的な視点もまた、静かに、しかし着実に形成されてきた。
- 「最初から呉京は道化師だと思っていた」(@本府碰不得氏)という意見は、彼の人気がピークに達する以前から、あるいは彼のパブリックイメージの根底に潜む、ある種の「演技」や「作為」を見抜いていた層の存在を示唆する。これは、単に映画のアクションシーンのリアリティや演技力のみを評価していた層とは異なり、よりメタ的な視点、すなわち「表象」と「実態」の乖離に敏感な層の存在を示唆している。彼らにとって、呉京氏の「愛国」は、純粋な信念というよりは、計算された「パフォーマンス」に映っていたのだろう。
- 「党国社会主義の教育を信じて疑わなかったが、言行不一致だからこそ反体制派になった」(@Lan-r7g氏)というコメントは、呉京氏個人への批判に留まらず、彼が体現する「愛国」というイデオロギーそのものへの幻滅を示している。これは、中国共産党が推進してきた、ナショナリズムと社会主義を融合させた「社会主義核心価値観」への言及とも言える。初期には、経済成長と国家の威信向上という「宏大叙事(ビッグ・ナラティブ)」が、多くの国民に共有され、その象徴としての呉京氏の「愛国」もまた、無批判に受け入れられた。しかし、経済成長の鈍化、社会的不平等の顕在化、そして国際情勢の複雑化といった現実が、「言行不一致」、すなわち「愛国」という表層的なプロパガンダと、国民が直面する厳しい現実との乖離を露呈させた。その結果、かつては「国家の忠実な息子」として崇拝の対象であった人物が、その「忠誠」の信憑性自体を問われるようになり、一部の人々を「反体制派」へと駆り立てる契機ともなった。この現象は、中国における「愛国」という概念が、単なる愛国心の発露ではなく、政治的・経済的イデオロギーと不可分に結びついていること、そしてそのイデオロギーの「効用」が変化するにつれて、国民の意識もまた変容するという、社会心理学的な側面を示している。
- 「台湾問題について、かつては統一を望んでいたが、今は台湾独立を支持する」(@蘅蕪卿客氏、@FredPatra氏、@natsumeyasuaki7884氏)といった意見は、呉京氏個人への評価の変化よりも、より根源的な社会全体の価値観のシフトを象徴している。これは、台湾問題という、中国のナショナリズムにおいて極めて重要な「核心的利益」とされるテーマに対する、大衆の認識が変化したことを示唆する。かつては「祖国統一」が絶対的な正義として掲げられ、それに対する異論は許されなかった。しかし、情報化社会の進展、特にインターネットを通じた多様な情報へのアクセス(政府による検閲は存在するものの)、そして台湾社会の民主化の進展とそれに伴う「台湾人」としてのアイデンティティの確立は、中国本土の人々にも影響を与えている。特に、若い世代を中心に、台湾の自己決定権を尊重する、あるいは台湾を「同胞」としてではなく、独立した国家として認識する傾向が強まっている。これは、単なる情報伝達の変化だけでなく、世代間の価値観の断絶、そして「国家」という概念の相対化といった、より広範な社会変容を反映している。呉京氏の作品が、かつてはこのような「国家」の統合を促す象徴であったが、今やその「国家」のあり方自体が問われ始めているのである。
2. 「道化師」としての振る舞い:誇張された「英雄」像の脆弱性
呉京氏が「道化師」として揶揄される背景には、彼の振る舞いや発言に、単なる「英雄」像では説明しきれない、人間的な「粗さ」や「傲慢さ」、あるいは「未熟さ」が露呈しているという指摘がある。これは、彼が演じる「冷峰」のような、洗練された、あるいは抑制された英雄像とは対照的であり、そのギャップが皮肉や嘲笑の対象となっている。
- 「呉京という人物は、質が低く、小人が得意げになっているような傲慢さがある」(@adamzhang5966氏)、「張牙舞爪」、「口無遮攔」、「自以為是」といった批判は、彼の言動が、単なる自信や情熱を超えて、自己顕示欲や承認欲求の表出、そして他者への配慮に欠ける「軽率さ」として映っていることを示唆する。これは、俳優という公人としての「自己管理」の甘さ、あるいは「フィルター」の欠如とも言える。現代のメディア環境、特にソーシャルメディアの普及により、公人の些細な言動も瞬時に拡散・分析される。その中で、彼の「人間臭さ」や「未熟さ」が、洗練された「英雄」像というペルソナを覆い隠し、「道化師」的な滑稽さを生み出しているのである。
- 「韓国の男性アイドルと呉京の写真を並べて、どちらが本当に兵役経験があるか聞くのが最も面白い」(@yoayoayo氏)というコメントは、彼の「軍人」「愛国者」といったイメージと、現実の彼の振る舞いや、ある種の「幼稚さ」とのギャップを皮肉っている。これは、中国における「兵役」や「愛国」といった概念が、しばしば「パフォーマンス」や「イメージ戦略」として利用される側面を浮き彫りにする。国民の愛国心を煽るために「戦う兵士」としてのイメージが強調される一方で、そのイメージを裏付けるような、人格的な成熟や、あるいは「本物」の人間性との乖離が指摘される。これは、現代社会における「authenticity(真正性)」への希求とも関連しており、人々は表層的な「英雄」像よりも、その背後にある「人間性」や「真実味」を求める傾向にある。
- 「呉京と謝楠がバラエティ番組に出演した際、謝楠とのやり取りで、非常に低い質を見せ、それを自覚もしていない」(@LeoNardo-HHFF氏)という指摘は、私生活における彼の言動が、公のイメージと乖離している可能性を示唆する。これは、メディアが作り出す「英雄」像と、個人の現実とのギャップ、そしてそれを無自覚に露呈してしまうことの危険性を示している。夫婦間のやり取りといった、比較的プライベートな場面での「質が低い」とされる言動は、視聴者に「あの英雄像は、あくまで演技なのか?」という疑念を抱かせ、信頼性を損なう要因となりうる。これは、現代のファンが、単に「偶像」を消費するだけでなく、その「偶像」を演じる「人間」にも関心を持つようになったこと、そしてその「人間性」が、期待される「英雄性」から逸脱した場合、失望や幻滅につながることを示唆している。
- 「戦狼2公開時、国内では全く異なる意見を許さなかった。映画のテンポが悪いという意見さえ許されなかった。興行収入56.81億のうち、于謙のセリフのシーンが最低20億、呉京がトマト旗を掲げたシーンが最低40億を貢献した。残りが映画自体の価値だ。しかし、これらのシーンは後に否定され、炎上は必然だった。しかし、呉京自身はすでに十分稼いだ。」(@jadentang129氏)というコメントは、彼の映画の成功が、純粋な映画的価値ではなく、プロパガンダ的な演出、すなわち「国威発揚」という社会的・政治的文脈に大きく依存していたことを鋭く指摘している。これは、中国における映画産業、特に「主旋律映画(メインメロディー映画)」と呼ばれる、政治的メッセージ色の強い作品の成功メカニズムを理解する上で重要である。興行収入の大部分が、映画の内容そのものよりも、愛国心を鼓舞する特定のシーンや、あるいは「政府からの支援」といった外部要因に依存しているという分析は、映画の芸術的・商業的価値を冷静に評価する視点を示している。そして、その後の「否定」や「炎上」は、当初のプロパガンダ的な熱狂が冷め、より批判的な視点が広まった結果として、「必然」であったと論じている。さらに、「呉京自身はすでに十分稼いだ」という指摘は、彼の「愛国」が、ある種の「ビジネス」として成功したという冷徹な分析であり、そこには、純粋な芸術的、あるいは愛国的動機だけではない、経済的インセンティブの存在を匂わせている。
3. 「自己神格化」の危うさ:俳優から「民族の英雄」への暴走
「道化師」として揶揄される一方で、呉京氏が自己のイメージを過度に神格化し、演じるキャラクターと現実の自分との境界線を見失っているのではないか、という懸念も根強く存在する。これは、彼が「愛国」という巨大なイデオロギーを消費する中で、自己のアイデンティティを過剰に拡張させ、あるいは「民族の英雄」という役割に没入しすぎている可能性を示唆する。
- 「呉京という人物は、運良く政治家にならなかった。この性格では、昇進して実権を持てば、どれほど狂暴になるか分からない。大物ぶって、思いつきで何でもやりかねない。」(@double_z3619氏)というコメントは、彼の性格や行動原理が、政治的な権力と結びついた場合に、社会にとって危険な存在になりうる可能性を指摘している。これは、単なる俳優というエンターテイナーの枠を超え、政治的な影響力を持つ可能性のある人物に対する、社会的な警戒感を示している。彼の「自信」や「主張の強さ」が、もし政治的な権力と結びつけば、それは「独断専行」や「暴走」につながりかねない、という懸念である。これは、過去の歴史における、カリスマ的な指導者が、大衆の熱狂と結びつくことで、結果的に社会を混乱に陥れた例を想起させる。
- 「愛国をビジネスにした、これが重点だ」(@ZhiMingLu-616氏)という指摘は、彼の「愛国」の動機が、純粋な信念や義務感からではなく、経済的な利益や名声の追求といった、より現実的な、あるいは打算的な動機に基づいているのではないか、という疑念を表す。これは、現代社会、特に資本主義経済が浸透した中国において、「愛国」という概念が、どのように「商品」化されうるのか、という視点を提供する。国家のイデオロギーを、個人的な成功のための「ビジネスモデル」として活用しているのではないか、という批判は、彼の「英雄」像の根底にある動機への懐疑を生む。
- 「俳優が、現実に自分が観客のために楽しませる対象であることを忘れ、キャラクターになりきってしまうと、それは精神分裂である」(@henrygu6149氏)という王剛氏の言葉を引用したコメントは、呉京氏が映画の中の「冷峰」というキャラクターと、現実の自分との境界線を見失っているのではないか、という見方を示唆している。これは、心理学における「アイデンティティの混同」や「役割への過剰没入」といった現象とも関連する。長期間にわたり、強靭な「英雄」像を演じ続けることで、そのペルソナが自己のアイデンティティと一体化し、現実世界での振る舞いにも影響を及ぼす可能性がある。これは、単なる演技の巧拙を超えて、俳優が自己の「現実」と「虚構」を区別できなくなってしまう、という危険性を示唆している。
- 「彼はただの俳優であり、過度に期待する必要はない」(@benbear815氏)という意見は、彼をあくまでエンターテイナーとして捉えるべきだ、という冷静な視点を示しており、大衆の過度な期待や「偶像化」に対する警鐘を鳴らしている。これは、メディアや社会が、著名人、特に「愛国」といったイデオロギーと結びついた人物に対して、過剰な期待を寄せ、その言動を絶対視してしまう傾向への反省を促す。彼を「神」として崇拝するのではなく、一人の人間、一人の表現者として、その作品や言動を批判的に吟味する姿勢が重要であることを示唆している。
4. 時代の変化と「現実」への目覚め:イデオロギーから実利へ
「この世界は変わった」というテーマは、社会全体の変化、特に価値観の多様化と、情報へのアクセス性の向上を意味する。かつては「宏大叙事(ビッグ・ナラティブ)」として人々を熱狂させた「愛国」というテーマも、経済状況の悪化や、情報公開の進展とともに、その実態が問われるようになっている。
- 「経済がますます悪化し、外部環境もますます悪化している。一部の人々は、ようやく宏大叙事が屁であることを悟った。」(@MikeYKW816氏)というコメントは、社会経済的な背景が、人々の意識変化に大きく影響していることを示唆している。これは、中国における「戦狼外交」の展開や、経済成長の鈍化、若者の間での「内巻(イン・ジョブ)」や「寝そべり族(タン・ピン)」といった現象に代表される、社会的な閉塞感や将来への不安感の広がりと関連する。経済的な豊かさが、国家の威信や「愛国」というイデオロギーを、ある程度「保証」していた時代から、経済的な困難が顕在化するにつれて、人々はより現実的・実利的な問題に目を向けるようになった。その結果、かつては感動的で「正しい」とされていた「愛国」のメッセージも、その「実利」や「効果」が問われるようになり、その「宏大叙事」の空虚さ、あるいは「屁」のような無意味さを感じ取る人々が増えた、という分析である。
- 「国内の覚醒した人々がますます増えているように感じる」(@zhaoqiansunmao氏)という声は、情報化社会の進展とともに、人々がより主体的に情報を取捨選択し、多様な視点を持つようになっていることを示唆している。これは、政府による情報統制やプロパガンダに対抗する形で、ソーシャルメディアなどを通じて、より多様な意見や情報が共有されるようになった結果である。かつては「国家」や「メディア」といった権威的な情報源が、人々の認識を形成する上で大きな役割を果たしていたが、現代では、個人が複数の情報源を比較検討し、自らの判断で「真実」を形成しようとする傾向が強まっている。この「覚醒」は、単なる知識の獲得に留まらず、既存の価値観や権威に対する懐疑、そしてより批判的な思考能力の獲得を意味する。
5. 結論:相対化される「英雄」と「愛国」、そして「変貌」する大衆
呉京氏の「道化師」としての側面と「自己神格化」への傾倒は、単なる一人の俳優への評価に留まらず、現代中国社会が経験する、イデオロギーの変容、メディアと大衆の関係性の再構築、そして個人のアイデンティティ形成といった、より広範で複雑な現象を浮き彫りにする。
「この世界は変わった」のである。かつて、単純な「英雄譚」や「愛国」のメッセージが、大衆を熱狂させ、社会を統合する強力な「接着剤」として機能した時代は、既に過去のものとなりつつある。経済成長の鈍化、社会的不平等の拡大、そして情報化社会の進展は、人々の価値観を多様化させ、批判的な思考を促し、かつての「宏大叙事」に対する懐疑を生み出した。
呉京氏への評価は、この社会変容の波の中で、より一層多角的なものとならざるを得ない。彼は、中国の「ソフトパワー」戦略の成功例として、あるいはその限界を示す証左として、両方の側面を持ち合わせている。彼の「人気」は、依然として一部の層には強固であるが、同時に、彼の言動や作品に対する冷ややかな視線、そして「道化師」としての揶揄もまた、無視できない存在となっている。
彼が今後、どのような立ち位置で、どのように自己を表現していくのかは、単に一人の俳優のキャリアの問題ではなく、中国社会における「愛国」という概念の変容、そして大衆のメディアリテラシーの向上を測る上でも、注目に値する。おそらく、人々はもはや、単純な「英雄」像に安易に酔いしれることはしないだろう。彼らは、より複雑で、多層的な視点から、メディアやインフルエンサー、そして社会現象を捉え、その「真実味」や「実利」を問うていくはずである。呉京氏という人物を通して、私たちは、現代中国社会の「変貌」とその「深層」を垣間見ることができるのである。
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