【話題】ヴィンランド・サガ・進撃の巨人終盤の賛否を心理学から分析

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【話題】ヴィンランド・サガ・進撃の巨人終盤の賛否を心理学から分析

漫画というメディアは、単なる物語の消費に留まらず、読者の内面に深く影響を与え、しばしば社会的な議論まで巻き起こす文化的現象となり得ます。特に、「ヴィンランド・サガ」や「進撃の巨人」といった作品は、その圧倒的なスケール、緻密な世界観、そして登場人物たちの普遍的な葛藤を描き出し、多くの読者の人生に刻まれるほどの体験を提供しました。しかし、これらの作品が、その壮大な序盤・中盤から終盤にかけて、一部の読者から「あの時がピークだった」「最後が残念だった」といった批判的な評価を受けることがあるのは、なぜでしょうか。本稿では、これらの名作が読者の期待を最大化させた要因と、終盤の展開が論議を呼んだ心理的・物語論的なメカニズムを多角的に分析し、その「伝説が止まった」かのような現象の真相に迫ります。

結論から言えば、「ヴィンランド・サガ」と「進撃の巨人」が終盤で賛否両論を巻き起こしたのは、物語の深化に伴うテーマの複雑化が、初期に形成された読者の「期待」という心理的構造と衝突したためです。作者が追求した物語の必然性と、読者が無意識に抱いていた「理想の結末」との乖離が、この現象の根源にあります。

読者の心を掴んだ「名作」への強固な期待形成:認知的不協和の萌芽

「ヴィンランド・サガ」は、ヴァイキングという荒々しい時代背景の中で、父アシェラッドへの復讐心を抱え、血生臭い戦いを生き抜く主人公トルフィンの姿が、読者の原始的な感情に強く訴えかけました。特に、「アシェラッド編」におけるトルフィンの成長、そしてアシェラッドという複雑なキャラクターとの関係性は、読者に強烈な没入感を与えました。この時期の物語は、明確な目標(復讐)、暴力という手段、そしてそれを凌駕するような卓越した戦闘描写によって、読者に「勧善懲悪」や「成長物語」といった、ある種の物語的約束事(ナラティブ・コンベンション)を無意識に期待させたのです。

一方、「進撃の巨人」は、巨人の正体、壁の外の世界、そして「座標」にまつわる謎といった、読者の知的好奇心を刺激する数々の伏線が、巧みに張り巡らされていました。エレン・イェーガーの「駆逐してやる」という初期の純粋な怒りや、調査兵団が命を賭して世界の真実を追い求める姿は、絶望的な状況下での「希望」や「解放」といった、極めて明快で力強いテーマを描き出していました。この「謎解き」と「英雄譚」の要素は、読者を物語に深く引き込み、緻密な伏線回収への期待感を指数関数的に増大させました。

これらの作品における序盤から中盤にかけての成功は、単にストーリーテリングの巧みさだけではありません。心理学における「認知的不協和」の理論で説明できる側面があります。読者は、作品に触れることで、その世界観やキャラクター設定、物語の方向性といった「認知」を形成します。そして、「ヴィンランド・サガ」や「進撃の巨人」は、その強烈な魅力によって、読者の「この作品はこうあるべきだ」という「期待」という認知を、極めて強固に、そしてポジティブに形成しました。この期待は、物語が進むにつれて、読者が作品に没入し、感情移入を深めるほど、より強固なものとなっていきます。

物語の深化とテーマの複雑化:読者の「期待」というレンズによる「ズレ」の発生

物語が「奴隷編」を経て「東の地編」へと移行する「ヴィンランド・サガ」は、トルフィンが暴力の連鎖からの解放、そして「戦う理由」を問い直す、より哲学的・内面的な旅へと舵を切ります。これは、初期の復讐劇という「手段」が、物語の「目的」そのものへの問いかけへと変容したことを意味します。読者が無意識に抱いていた「トルフィンの成長=より強力な戦士になること」という期待は、「トルフィンの成長=暴力からの解放と平和の探求」という、より成熟した、しかし読者にとっては予想外の方向へと導かれました。

「進撃の巨人」も同様に、当初の「巨人の謎」という枠組みから、「地鳴らし」という究極の選択、そして民族間の憎悪と歴史の重層性といった、より根源的で倫理的に複雑なテーマへと移行しました。エレン・イェーガーが「自由」のために行った「地鳴らし」という行為は、その手段の非人道性から、多くの読者の道徳観や倫理観に直接的な衝撃を与えました。初期に読者が抱いていた「エレンは世界の救世主となる」という期待は、彼が「世界の破壊者」となり得るという、物語の極端な現実主義と対峙することになったのです。

この「ズレ」は、心理学における「確証バイアス」や「期待理論」とも関連します。一度形成された強い期待は、それを裏付ける情報に無意識に注目し、反証する情報を排除しようとする傾向を生みます。物語の終盤で提示される、初期の期待とは異なる展開は、読者にとって「裏切り」や「期待外れ」として認識されやすく、それが批判的な意見へと繋がります。

さらに、物語論的な観点からは、「作家の自己表現欲求」と「読者のエンターテイメント欲求」のバランスという問題も浮上します。作者は、作品を通して自身の探求したいテーマやメッセージを追求する権利がありますが、読者は、それに加えて、期待していたエンターテイメント性やカタルシスも求めています。「ヴィンランド・サガ」の作者・幸村誠氏が、トルフィンの「平和への渇望」というテーマを深く追求したように、「進撃の巨人」の作者・諫山創氏が、人間性と歴史の暗部、そして「自由」の代償といったテーマを極限まで掘り下げた結果、物語は必然的に壮絶な、そして読者によっては受け入れがたい結末へと向かっていったのです。これは、作者が「描きたいもの」を最優先した結果であり、それが読者の「見たいもの」と乖離する可能性は、物語が深まるにつれて高まります。

議論の再定義:名作たる所以の深掘り

では、なぜこれらの作品の終盤の展開は、これほどまでに「賛否両論」を巻き起こし、そして「名作」としての地位すら揺るがすかのような論争に発展するのでしょうか。それは、これらの作品が、読者に単なる娯楽を超えた、「人生観」「倫理観」「哲学」といった、より根源的な問いを投げかけたからに他なりません。

「ヴィンランド・サガ」の「東の地編」におけるトルフィンの、暴力の否定と他者への寛容というテーマは、現代社会においても極めて重要な意味を持ちます。初期の読者が期待していた「復讐の成就」は、作品が提示する「真の平和」という、より困難で抽象的な目標の前では、矮小化されてしまうのです。この「価値観の転換」を、読者がスムーズに受け入れられるかどうかが、評価を分ける鍵となりました。

「進撃の巨人」の「地鳴らし」は、究極の状況下における「極端な合理主義」と「絶対的な倫理」の衝突を克明に描いています。エレン・イェーガーの行動は、彼の置かれた過酷な状況、そして「自由」を求めるあまりに生じた歪んだ自己犠牲の形態として描かれます。これは、「正義とは何か」「平和のために許される犠牲とは何か」といった、普遍的かつ答えの出ない問いを読者に突きつけます。これらの問いに対する読者一人ひとりの答えが、結末への評価に直接的に影響を与えたのです。

これらの作品の終盤に対する議論は、作者の意図や物語の完成度だけでなく、読者自身の内面的な成熟度や、作品に何を求めているかという、より個人的な側面をも浮き彫りにします。初期の「王道」展開を期待する読者、作品の深遠なテーマ性を評価する読者、そして作品を通して自身の人生観を投影する読者。それぞれの視点が交錯し、熱い議論を生み出すこと自体が、これらの作品が「名作」たる所以であり、読者の人生に深い影響を与えた証拠と言えるでしょう。

終わりに:伝説を「止めた」のではなく、「深めた」作品たち

「ヴィンランド・サガ」や「進撃の巨人」の終盤が「クソ化」したという意見は、ある意味では、読者が作品に抱いた期待が、作者の描こうとした「必然」や「真実」と乖離した結果として生じた、ある種の「悲劇」とも言えます。しかし、それは決して作品の価値を貶めるものではありません。むしろ、これらの作品が、読者の心に強烈な「期待」を植え付け、その期待を裏切る(あるいは超える)ほどの深遠なテーマを提示したからこそ、これほどの議論が巻き起こるのです。

「幽☆遊☆白書」のように、多くの読者から一貫して「名作」として支持され続ける作品も存在します。しかし、それは「期待を裏切らなかった」という側面だけでなく、作者が読者の期待の「あり方」そのものを、巧みにコントロールし、作品の魅力を損なうことなく完結させた結果とも言えます。

「ヴィンランド・サガ」と「進撃の巨人」は、読者に「伝説はなぜあの時で止まったのか?」という問いを投げかけると同時に、「伝説は、あの時で止まったのではなく、読者の期待というレンズを通して、より深く、そして多層的に解釈されるべきものになった」と、私たちに語りかけているのではないでしょうか。これらの作品との出会いを、単なる「期待通りの結末」か否かという二元論で捉えるのではなく、作品が私たちに問いかけた「人生」「正義」「自由」といった普遍的なテーマについて、さらに深く考察する契機として捉え直すことが、真にこれらの「名作」と向き合う姿勢と言えるでしょう。これらの作品が、私たちの内面に刻み込んだ「衝撃」と「問い」こそが、真の「伝説」を紡いでいくのではないでしょうか。

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