結論:宇多丸氏の批評は「映画」というメディアの制約と原作の「感傷」的表現の衝突を炙り出した、映画批評の厳格な視点からの異議申し立てである。
ラジオパーソナリティであり、深遠な映画批評でも知られる宇多丸氏が、近年、社会現象とも呼べる人気を博した『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』(以下、『無限城編 第一章』)に対して、「ゴミ」「こんなの映画じゃない」といった辛辣な意見を呈したことは、多くの議論を呼びました。本稿では、宇多丸氏の指摘を映画理論、特に「メディア論」や「物語論」の観点から詳細に分析し、原作『鬼滅の刃』が内包する「事情」という名の感傷的表現が、映画というメディアの特性とどのように衝突し、あるいは親和性を見出しているのかを、多角的に掘り下げて考察します。
1. 宇多丸氏の批評:映画的構成からの逸脱と「メディアの特性」への異議
宇多丸氏の批評の核心は、本作が「映画」というメディアの文法に則っているか、という一点に集約されます。彼の指摘は、単なる個人的な好悪を超え、映画が持つ「時間」「空間」「編集」といった要素の有機的な統合性、そして観客に提供すべき「体験」の連続性への厳格な要求に基づいています。
1.1. 「テレビアニメの断片化」:時間的連続性の崩壊
宇多丸氏が「テレビアニメのような区切り」と指摘した点は、映画における「時間的連続性」の重要性を示唆しています。映画は、通常、約90分から180分という限られた時間の中で、起承転結を持つ一つの完結した体験を提供することを目指します。しかし、『無限城編 第一章』がテレビアニメシリーズの数話を劇場上映用に再編集したものである場合、各エピソードの区切り、すなわち「カット」や「シーン」の繋ぎ目に、テレビアニメ特有の「次回予告」や「提供クレジット」を挿入しないまでも、その「区切り」の痕跡が観客の没入感を削ぐ可能性があります。
これは、映画における「モンタージュ理論」の観点からも考察できます。セルゲイ・エイゼンシュテインが提唱したモンタージュは、単に映像を繋ぎ合わせるだけでなく、映像と映像の衝突によって新たな意味や感情を生み出す技法です。テレビアニメの各話は、それぞれが独立した「ミニ・ナラティブ」としての完結性を持ち、その連続性は必ずしも一条の太い流れを作ることを意図していません。劇場版として再構成された場合、この「エピソード単位」の連続性が、映画として求められる「シームレスな時間的進行」を阻害し、宇多丸氏が指摘する「映画としての統一された構成の欠如」に繋がったと考えられます。
1.2. 「原作映像化によるテンポの低下」:「メディアの身体性」の不適合
「原作の全てを映像化しようとした結果、本来のスピード感が失われている」という指摘は、メディアの「身体性」という概念に照らして理解できます。活字媒体である原作漫画は、読者が自身のペースで「ページをめくる」という能動的な行為によって、物語の進行速度をコントロールできます。読者は、必要に応じて立ち止まり、コマの細部を検討したり、セリフを反芻したりすることができます。しかし、映像メディアは、上映される映像と音響によって、観客の「時間」を一方的に進行させます。
『鬼滅の刃』の原作が持つ「ページをめくる手が止まらないテンポ感」は、コマ割りの巧みさ、セリフの密度、そして「読者」という主体が能動的に解釈・進行させる読書体験に依存しています。これをそのまま映像化しようとすると、視覚情報が物理的に「流れる」映画のフォーマットでは、原作の持つ「咀嚼する時間」が奪われ、結果として「テンポの低下」や「間延び」として感じられてしまうのです。宇多丸氏が「ものすごく疲れる」と評したのは、まさにこのメディア間の「身体性」の不適合から生じる、観客の受動的な疲労感であり、映画体験としての「集中力の持続」という観点からの批判と言えます。
1.3. 「説明台詞の多さ」と「RPG的なバトル展開」:「見せる」から「説明する」への転換
「見ていれば分かる」場面での説明台詞の多用、そして「技名を叫び、ターン制のように技を繰り出し、そこに悲しい過去の回想が挟まれる」バトル描写は、映像表現における「見せる(Show)」から「説明する(Tell)」への過剰な移行を示唆しています。
映画においては、視覚情報、聴覚情報、そして登場人物の非言語的な表現(表情、仕草、身体言語)によって、物語の状況や登場人物の感情を「見せる」ことが、より洗練された表現とされます。しかし、説明台詞の多用は、観客の想像力や解釈の余地を奪い、制作側の「説明責任」に終始している印象を与えかねません。
「RPG的なバトル展開」は、ゲームというメディアの文法であり、そこに「悲しい過去の回想」を挿入する構造は、キャラクターの「背景」や「動機」を説明するための効果的な手段です。しかし、それが過剰になると、バトルそのものが持つ「劇的展開」や「緊張感」を損ない、宇多丸氏が「事情」対決と評したように、技の応酬というよりも、登場人物それぞれの「背景」の重さを競い合うような、一種の「展示」になってしまうのです。これは、映画における「アクション」が、単なるスペクタクルに留まらず、キャラクターの心理描写や物語の推進力と有機的に結びついているべきだという、映画批評における普遍的な要求と矛盾します。
1.4. 「回想シーンの過多と重さ」と「死者への寛容」:カタルシスの希釈
宇多丸氏が「無限城編に登場するビッグネームたちの重く長い回想」や、「死者から許される着地」を問題視した点は、物語における「カタルシス」の構築と、その「質」への批判として捉えられます。
アリストテレスの『詩学』に端を発するカタルシスは、演劇や物語が観客に抱かせる「憐憫」と「恐怖」といった感情を浄化・昇華させることを指します。しかし、登場人物の「事情」を過度に掘り下げ、それらを「悲しい過去」という名の「感傷」に終始させることは、観客を「憐憫」に浸らせるだけで、その感情を昇華させずに「胃もたれ」させる可能性があります。
特に、『鬼滅の刃』において、登場人物(特に鬼)が「死者」から励まされたり、過去の自分と対話したりする展開は、一種の「赦し」や「救済」を物語に付与しますが、それが過度になると、彼らの「罪」や「悲劇性」が相対化され、物語に求められる「厳しさ」や「悲劇性」が希釈されてしまう恐れがあります。宇多丸氏の「死者」への寛容さへの疑問は、物語の「緊張感」や「リアリティ」(物語世界における内部的な論理)を維持する上での、映画批評家としての厳格な姿勢の表れと言えるでしょう。
2. 『鬼滅の刃』の「事情」と「ウェットさ」:現代における「感傷」の再定義
一方で、宇多丸氏が「ウェットすぎる」と評した『鬼滅の刃』の回想シーンや「事情」の重さは、現代社会において「感傷」が持つ意味合いを再考させる契機となります。
2.1. 「事情」の「普遍性」と「共感」:キャラクターの内面への没入
『鬼滅の刃』が描く登場人物たちの「事情」は、単なる個別の悲劇に留まらず、失われた家族、幼少期の虐待、社会からの疎外、そして抗いがたい運命といった、現代社会においても広く共感を呼びうる普遍的なテーマを含んでいます。これらの「事情」が、キャラクターの行動原理や感情の根源となり、観客は彼らの内面に深く共感し、感情移入します。
宇多丸氏が「記号的表現」と批判した箇所も、見方を変えれば、これらの普遍的な「事情」を、視覚的・聴覚的に象徴化し、観客の感情に直接訴えかけるための、意図的な表現手法と解釈できます。原作では文字情報として提示される「事情」を、映像、音楽、声優の演技といった映画的な要素によって「拡張」し、より「体験的」に感情を揺さぶろうとする試みと捉えることも可能です。
2.2. 「ウェットさ」の「脱構築」:悲劇性と救済の二律背反
「コテコテのウェットさ」という批判は、現代のフィクションにおいて、単純な「泣かせ」という手法が、洗練された表現として必ずしも受け入れられない現実を示唆しています。しかし、『鬼滅の刃』の場合、その「ウェットさ」は、単なる感情の垂れ流しではなく、キャラクターの悲劇性を強調し、そこから生まれる「救済」や「希望」をより際立たせるための機能も持っています。
これは、現代における「悲劇」の捉え方の変化とも関連します。古典的な悲劇が、不可避な運命や人間の限界を描くことで観客に「憐憫」や「恐怖」を抱かせ、それを浄化させるのに対し、現代の物語は、悲劇的な状況下でも「希望」や「人間性」を見出すことで、観客に「共感」や「連帯感」を抱かせようとする傾向があります。宇多丸氏が「死者」への寛容さを批判した背景には、このような現代的な「悲劇」の解釈に対する、より伝統的で厳格な映画批評の視点があるのかもしれません。
3. 映画化における「原作補完」と「メディア特性」の再考
『無限城編 第一章』の映画化は、原作の魅力を「補完」し、新たな表現領域を開拓しようとする試みであると同時に、メディア特性の「再考」を促すものでもあります。
3.1. 「メディア・アダプテーション」の課題:原作の「精神」と映画の「身体」
「メディア・アダプテーション」、すなわちあるメディアの作品を別のメディアで再構築する作業は、常に「原作の精神」をいかに維持しつつ、受け入れ側のメディアの特性を最大限に活かすかという課題に直面します。原作漫画の「ページをめくる」という能動的読書体験は、映画の「受動的鑑賞体験」とは本質的に異なります。
宇多丸氏の批評は、このメディア間の「断絶」を鋭く指摘したものです。彼は、劇場版というフォーマットで、原作の持つ「疾走感」や「テンポ感」をそのまま持ち込もうとした結果、映画としては「間延び」してしまい、「疲労感」を生むという、メディア・アダプテーションにおける典型的な失敗例として捉えたのでしょう。
3.2. 「無限城」という「舞台装置」の活かし方:空間表現の限界
「無限城の活用不足」という指摘は、映画における「空間表現」の重要性を示唆しています。無限城という、視覚的にも物語的にもユニークな舞台装置は、その構造自体が物語に複雑さや不条理さをもたらす可能性があります。しかし、それが単なる「背景」に留まり、登場人物の心理描写や物語の進行に深く関与しない場合、その「舞台装置」としてのポテンシャルは十分に引き出されたとは言えません。
映画は、3次元的な空間を2次元のスクリーン上に再構成し、編集によって「時間」という第4の次元を操作することで、観客に「体験」を提供します。無限城のような複雑な空間を、観客に効果的に「体験」させるためには、単にそれを「描く」だけでなく、カメラワーク、照明、音響、そして編集によって、その空間の持つ「意味」や「機能」を観客に「感じさせる」必要があります。宇多丸氏の指摘は、この点において、本作の表現が「表層的」であった可能性を示唆しています。
4. 原作との比較、そして「第二章」への期待:映画批評の「進化」を求めて
宇多丸氏自身も、「第一章もテレビシリーズで6話分にバラして見直したら評価変わるかも」「次の第二章に期待したい」と述べている点は、彼の批評が「作品全体」ではなく、「第一章」という「区切り」、そして「映画」という「フォーマット」に限定されたものである可能性を示唆しています。
『鬼滅の刃』の無限城編は、物語のクライマックスに向けて、伏線回収、キャラクターのドラマ、そして壮絶なバトルが連続する、極めてエキサイティングなパートです。この物語の全貌が、どのように劇場版として完結し、宇多丸氏が指摘したような「映画としての課題」が、第二章以降でどのように克服されるのかは、映画批評家のみならず、多くの観客が注目するところです。
結論:宇多丸氏の批評は、映画というメディアの制約と原作の「感傷」的表現の衝突を炙り出した、映画批評の厳格な視点からの異議申し立てである。
宇多丸氏の辛辣な批評は、『鬼滅の刃』という作品の熱狂的な支持層からは賛否両論を巻き起こしましたが、それは同時に、映画というメディアの特性、物語論、そして表現技法について、改めて深く考察する機会を与えてくれました。彼の指摘は、単に「面白くない」という主観的な感想に留まらず、映画が持つ「時間」「空間」「編集」といった要素の有機的な統合性、そして観客に提供すべき「体験」の連続性への厳格な要求に基づいています。
『鬼滅の刃』が描く「事情」という名の感傷的表現は、現代社会における「悲劇」の捉え方や「共感」のあり方を映し出しており、多くの人々を惹きつける魅力となっています。しかし、その魅力を映画というメディアで最大限に活かすためには、原作の持つ「テンポ感」や「感傷」を、映画的な「時間」と「空間」の文法に適合させる、より洗練された「メディア・アダプテーション」が求められます。
宇多丸氏の批評は、映画批評における「厳格な基準」と、大衆的な人気作品が持つ「普遍的な魅力」との間の、一種の緊張関係を示唆しています。「一番売れているものが自分にとって一番良いものとは限らない」という彼の言葉は、常に消費社会における「評価」の基準を問い直す契機となります。しかし、同時に、多くの人に愛されている作品には、それだけの理由があり、その「理由」をメディアの特性と照らし合わせて深く分析することが、より豊かな映画体験へと繋がるはずです。
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』に対する評価は、観る人それぞれの映画体験、原作への思い入れ、そして「映画」というメディアに何を求めるかによって大きく変わってくるでしょう。宇多丸氏の批評は、あくまで一つの、極めて厳格で専門的な視点として受け止め、読者一人ひとりが、この壮大な物語をどのように「映画」として、そして「作品」として味わうのか、そして「映画」というメディアの可能性と限界について、改めて考えてみる良い機会となれば幸いです。そして、続く第二章が、宇多丸氏の批評を乗り越え、より多くの観客を満足させる、深い感動を伴う映画体験となることを、映画批評家としての視点から、そして一人の観客としても、心から期待したいと思います。
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