【専門家解説】トイレマークの「決めつけ」論争の真相 ― “意識高い系”と片付けられない、デザインと社会の必然的進化
序論:本稿の結論
本稿で提示する結論は明確である。トイレのピクトグラム(案内用図記号)を巡る「青は男性、赤は女性」「ズボンは男性、スカートは女性」といった表現への疑義は、単なる「意識高い系」の主観的な異議申し立てではない。それは、①ユニバーサルデザインの科学的要請、②ジェンダーの社会的構築性に対する認識の深化、そして③インクルーシブ(包摂的)な社会インフラ設計への移行という、3つの不可逆的な社会的・技術的潮流が交差する点で生じた、必然的な議論である。本記事では、この結論に至る背景を、デザイン規格、認知科学、社会学の観点から多角的に解き明かす。
1. 規範の不在と慣習の形成:JIS規格が示す「色の原則」
我々の多くが「常識」と見なすトイレマークの「男性=青、女性=赤」という色分け。しかし、この慣習を国家レベルで規定する法的・公的基準は、実は存在しない。この点を理解する上で極めて重要なのが、日本の産業製品に関する国家規格であるJIS(日本産業規格)の指針である。
ISOにしろJIS規格にしてもトイレなどの図案は、白地に黒色が基本で
引用元: トイレのサインから学ぶ、人の認知能力と空間体験 – Spectrum Tokyo
この「白地に黒」という基本原則は、デザインにおける視認性(Visibility)と判読性(Legibility)の最大化を目的としている。ピクトグラムの根源的な使命は、言語や文化、個人の能力差を超えて、情報を迅速かつ正確に伝達することにある。高コントラストである白黒の組み合わせは、この使命を達成するための最も普遍的な解である。JIS Z 8210(案内用図記号)が定めるのは、まさにこの情報伝達の普遍性であり、装飾的な色分けは二義的なものに過ぎない。
では、なぜ「赤と青」がこれほどまでに普及したのか。これは、1964年の東京オリンピックを契機にピクトグラムが国内に広く導入された後、商業施設などが他施設との差別化や視覚的誘導の強化を意図して色彩を付加し、それがデファクトスタンダード(事実上の標準)として社会に定着した結果と考えられる。つまり、この色分けは公的な規範ではなく、あくまで市場原理と社会的慣習によって形成されたものなのである。
2. 色彩の科学的限界:ユニバーサルデザインの視点からの再評価
慣習として定着した「赤と青」の色分けは、一見すると直感的で分かりやすいように思える。しかし、この「分かりやすさ」は、全ての人にとって保証されたものではない。ここに、ユニバーサルデザイン、特にカラーユニバーサルデザイン(CUD)の観点から、深刻な課題が浮かび上がる。
特に色覚多様性者は男性の20人に1人の割合と言われています。
引用元: 色やサイズを変えてもOK? JIS規格を満たすトイレのピCTO | 室名札 … – 株式会社フジタ
「男性の20人に1人」という数字は、決して無視できない規模の集団を示している。これは、平均的な40人クラスの学校であれば、男子生徒の中に1人から2人は該当者がいる計算となる。色覚多様性を持つ人々(例:P型色覚、D型色覚)にとって、特定の色の組み合わせ、特に彩度や明度が近い赤と緑、青と紫、あるいは青と黒などの判別は著しく困難な場合がある。
したがって、「色のみ」に情報伝達を依存するデザインは、情報保障の観点から脆弱であると言わざるを得ない。優れた情報デザインは、冗長性(Redundancy)の確保を原則とする。つまり、色、形、文字、配置といった複数のチャネルを通じて同じ情報を伝えることで、一部のチャネルが機能しない状況(例:色覚多様性、低照度環境、遠距離からの視認)でも、情報の欠落を防ぐのである。「男は青、女は赤」という慣習は、この冗長性の原則を軽視し、特定の認知特性を持つ人々を情報アクセスから排除するリスクを内包しているのだ。
3. シルエットの記号論:ジェンダー表現という「社会的構築物」
色彩の問題に加え、もう一つの重要な論点がシルエット、すなわち「ズボンとスカート」による性別の表現である。この記号論的な問題は、現代社会における性の多様性への配慮と密接に結びついている。
私たちの社会では、生物学的な性(セックス)とは別に、社会的・文化的に形成される性別(ジェンダー)や、個人が自認する性別(ジェンダー・アイデンティティ)が存在することが広く認識されるようになった(参照: LGBTのトイレ問題について。 – 自分らしく生きるプロジェクト)。この文脈において、スカートのシルエットを「女性」、ズボンのシルエットを「男性」と固定化するピクトグラムは、以下のような深刻な課題を生じさせる。
- 二元論的表象の限界: この記号体系は、性別を「男性」か「女性」かの二者択一でしか表現できず、トランスジェンダーやノンバイナリー(Xジェンダー)など、多様な性のあり方を可視化できず、存在を無視することにつながる。
- 社会的スティグマの助長: 自認する性と身体的特徴、あるいは服装が一致しない人々がトイレを利用する際に、心理的な障壁や、他者からの誤解や偏見に晒されるリスクを高める。
このような課題に対応するため、行政レベルでも具体的な動きが見られる。
多様性に配慮した県有施設の男女共用トイレの整備
(中略)JIS規格に従ったピクトグラムを表示しています。
引用元: 多様性に配慮した県有施設の男女共用トイレの整備 | 美の国あきたネット – 秋田県
秋田県の事例は、地方自治体が性の多様性に配慮し、JIS規格の原則(特定のジェンダー表現に偏らない、より普遍的な記号)に立ち返ろうとする動きの象徴である。男女のシルエットを併記したり、あるいは性別を問わない「オールジェンダートイレ」を設置したりする試みは、もはや一部の先進的な取り組みではなく、公共インフラが果たすべき包摂性(Inclusion)の要請なのである。
4. 未来のデザイン実践:「THE TOKYO TOILET」が示す社会変革の可能性
こうしたデザインと思想の潮流が結実した最先端の事例が、日本財団によるプロジェクト「THE TOKYO TOILET」である。これは単なる公共トイレの改修事業ではない。
多様性を受け入れる社会の実現を目的に、東京都渋谷区内17カ所の公共トイレを新しく生まれ変わらせるプロジェクト。
引用元: THE TOKYO TOILET | 日本財団
このプロジェクトの核心は、「多様性を受け入れる社会の実現」という明確な目的設定にある。例えば、建築家・坂茂氏が設計した「透明なトイレ」は、利用者が鍵をかけると不透明になる特殊なガラスを使用している。これは、利用前に内部の清潔さや不審者の有無を確認できるという安全性の向上と、プライバシーの確保を両立させる画期的なデザインだ。
この試みは、トイレという極めてプライベートな空間を、社会課題解決のためのプラットフォームとして再定義するものである。「意識高い系」という言葉で時に揶揄されがちな抽象的な理念が、「デザイン思考」という具体的な問題解決手法を通じて、物理的な空間として社会に実装されているのだ。これは、公共空間のデザインが、人々の意識や行動をいかに変容させうるかを示す、壮大な社会実験と言えるだろう。
結論:デザインの「当たり前」を問い直す知性
「トイレマークの決めつけは良くない」という声は、表層的な言葉狩りなどではない。それは、私たちが無意識に受け入れてきた「当たり前」のデザインが、実は一部の人々を排除し、社会の変化に追いついていないという事実を的確に指摘する、知的なアラートである。
本稿で論じてきたように、この問題は、
– 科学的妥当性: 色覚多様性への配慮と、情報伝達の普遍性。
– 社会的正当性: ジェンダーの多様性に対する包摂性。
– 技術的先進性: デザイン思考による社会課題の解決。
という複数の専門的領域にまたがる、複合的かつ重要なテーマなのである。
トイレマークという一枚のプレートは、現代社会が向き合うべき課題を映し出す鏡だ。次にあなたが公共空間で何らかのサインを目にした時、ぜひ立ち止まって考えてみてほしい。そのデザインは、本当に「すべての人」にとって機能しているだろうか。そのシンプルな図形に込められた思想を読み解くことこそ、より公正で、より思慮深い社会を構築するための第一歩となるのである。
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