【専門家分析】週刊新潮ヘイトコラム問題の構造的病理 ―「表現の自由」の境界線とメディアの責任
序論:単なる言論事件ではない、現代日本社会の構造的課題
本稿が分析する週刊新潮のコラムを巡る一連の騒動は、単発の出版不祥事として矮小化されるべきではない。これは、現代日本社会における「表現の自由」と「ヘイトスピーチ規制」の境界線を巡る構造的課題、そして商業メディアが内包する倫理的ガバナンスの不全を浮き彫りにした、極めて象徴的な事象である。
本稿の結論を先に述べる。この問題の核心は、歴史的文脈を故意に無視した差別的言説が、大手出版社の編集という「ゲートキーパー」機能を通過し、商業メディアという権威あるプラットフォームから発信された点にある。その結果、個人の尊厳が深刻に侵害されただけでなく、社会におけるマイノリティへの差別を助長・容認する危険なメッセージが拡散された。したがって、我々が本件から学ぶべきは、個別の表現への非難に留まらず、差別を許容し再生産するメディアと社会の構造そのものへの批判的洞察である。
以下、この結論に至る論拠を、事象の多角的な分析を通じて詳述する。
1. 歴史的暴力の再演:「創氏改名2.0」という名のヘイトスピーチ
すべての発端は、2025年7月24日発売の「週刊新潮」(7月31日号)に掲載された、元産経新聞記者・高山正之氏の連載コラム「変見自在」であった。問題の核心を理解するためには、まずコラムが発した以下の言説を、その歴史的・社会的文脈から精密に読み解く必要がある。
日本も嫌い、日本人も嫌いは勝手だが、ならばせめて日本名を使うな
引用元: 週刊新潮コラムに作家の深沢潮さんが抗議 「心を打ち砕かれた」 – 朝日新聞デジタル ※リンクは過去記事のため仮設
この一文は、単なる筆者の個人的な意見表明ではない。これは、特定の属性を持つ個人に対し、その存在の根幹に関わる「名前」の使用を禁じるという、極めて暴力的な要求である。特に、コラムタイトルに「創氏改名2.0」と冠したことは、この言説の悪質性を決定づけている。
「創氏改名」とは、単なる「改名推奨」ではない。それは、大日本帝国による植民地支配下において、朝鮮の人々の民族的アイデンティティを剥奪し、皇民化を強制する同化政策の核心的な一環として行われた、紛れもない歴史的暴力である。この政策がもたらした屈辱と苦痛の記憶は、今なお多くの人々の間に深く刻まれている。この重い歴史的文脈を意図的に援用し、「2.0」とアップデートするかのように表現することは、過去の加害の歴史を軽んじ、現代においてその暴力を再演しようとする、極めて悪質なレトリックと言わざるを得ない。
これは、日本国の「ヘイトスピーチ解消法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)」が定義する「不当な差別的言動」の要件、とりわけ「その属する地域社会から排斥することを扇動する不当な差別的言動」や、個人を著しく侮蔑する行為に該当する可能性が極めて高い。本コラムは、作家・深沢潮氏をはじめとする在日コリアンが、歴史的経緯や差別の実在といった社会的事情から日本名を名乗っている現実を完全に無視し、彼らの存在そのものを「不当」と断じているからである。
2. 「背後から突き落とされた感覚」— 加害の構造とプラットフォームの責任
この差別的言説に対し、名指しされた作家の深沢潮氏は、2025年8月4日の記者会見で、その悲痛な胸の内を次のように語った。
「新潮社からデビューし、数冊の本を出せたことは幸せだったが、私の心は打ち砕かれた。屋上でいい景色を見せてくれたと思ったら、背後から突き落とされた感覚」
引用元: ヤンヨンヒ 양영희 Yang Yonghi (@yangyonghi) / X
この言葉は、単なる一個人の感情の吐露ではない。これは、加害が成立する構造を鋭く突いた、重要な証言である。深沢氏にとって新潮社は、単なる出版社ではなく、自らの作家としてのキャリアを共に築き上げてきた「パートナー」であり、作品を世に問うための「プラットフォーム」であった。その信頼関係のただ中にいたからこそ、同じプラットフォームから発せられたヘイトスピーチは、見知らぬ第三者からの攻撃とは比較にならないほどの破壊力を持った。
心理学における「裏切りのトラウマ(Betrayal Trauma)」という概念が、この状況を説明する一助となる。これは、信頼していた人物や組織から裏切られた際に生じる、より深刻で複雑な心理的ダメージを指す。深沢氏の「屋上から突き落とされた」という比喩は、信頼関係を前提とした加害がもたらす絶望感と無力感を、あまりにも的確に表現している。
これは、出版社が自社で育成・支援する作家の尊厳を、別の自社コンテンツで毀損するという深刻な自己矛盾であり、プラットフォームとしての責任を根底から放棄した行為に他ならない。
3. 謝罪と連載継続のパラドクス:企業の倫理的ガバナンス不全の露呈
深沢氏の抗議を受け、新潮社は同日夜、公式サイトで謝罪文を公表した。
「深くお詫(わ)び申し上げます。出版社として自らの力量不足と責任を痛感しております」
引用元: 週刊誌コラムに作家の深沢潮さん抗議 「責任痛感」と新潮社謝罪 – 日本経済新聞
しかし、この謝罪の信憑性は、直後に報じられた事実によって大きく揺らぐことになる。朝日新聞の取材に対し、新潮社は問題となった高山氏のコラムを、次号でも継続して掲載する方針を示したのである(2025年8月4日時点)。
この「謝罪はするが、原因は除去しない」という対応は、コーポレート・ガバナンスおよび危機管理の観点から見て、致命的な欠陥を露呈している。これは、目先の商業的利益(人気連載の維持)を、企業倫理や長期的なブランド価値、そして何よりも人権への配慮よりも優先するという経営判断を示唆している。
出版社はしばしば「編集権の独立」や「筆者の思想への不介入」を盾にする。しかし、編集権とは、人権侵害や差別扇動を無制限に許容するための免罪符ではない。むしろ、社会に多大な影響力を持つ言説を公にするか否かを判断する「ゲートキーパー」として、より高度な倫理的判断と社会的責任を伴う権限である。今回の件は、そのゲートキーパー機能が完全に麻痺していたか、あるいは意図的に放棄されていたことを示している。
4. 専門家たちの連帯と「表現の自由」を巡る健全な議論の必要性
この問題に対し、出版界からは迅速かつ力強い連帯の声が上がった。これは、単なる同業者への同情ではない。
- 桐野夏生氏: 「名指しのヘイトは、女性差別も感じられる悪意だ」
- 村山由佳氏: 「あれほどの差別と中傷に満ちみちたコラムの掲載を、どうして事前に止められなかったのか」
- 安堂ホセ氏(第172回芥川賞受賞作家)も抗議メッセージを発信
(参考: Katz ||| @PanTraductia, LLC. (@PTraductia) / X)
これらの声は、「言葉」を生業とする専門家たちが、言葉の暴力性に対して抱く強い危機感の表れである。彼らは、表現の場そのものが、差別や憎悪によって蝕まれることを防ぐための、プロフェッショナルとしての自浄作用を発揮しようとしているのだ。
この動きは、しばしば「キャンセルカルチャー」として批判の対象となるが、本件をそのように単純化することは、問題の本質を見誤らせる。議論の核心は、「表現の自由」の絶対性ではなく、その境界線にある。ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で提唱した「危害原則(Harm Principle)」によれば、個人の自由は、他者に危害を加えない限りにおいて最大限尊重されるべきとされる。ヘイトスピーチは、マイノリティの尊厳を傷つけ、社会参加を萎縮させ、現実世界での暴力や差別を誘発するという明確な「危害」をもたらす。したがって、それは保護されるべき「表現の自由」の範疇を超える、という議論が国際的な人権基準となっている。
本件は、日本社会がこの「表現の自由」と「ヘイトスピーチ」の間の境界線をどこに引くのか、改めて真剣に議論する必要があることを突きつけている。
結論:メディアが自問すべき存在意義と、我々の責務
冒頭で述べた通り、週刊新潮のコラム問題は、日本社会とメディアが抱える根深い病理を白日の下に晒した。
- 歴史修正主義とヘイトの結合: 過去の加害の歴史を軽視・歪曲し、それを現代のマイノリティ攻撃の道具として利用する危険な言説が、大手メディアで流通している現実。
- 商業主義と倫理の乖離: 発行部数や注目度といった商業的利益が、人権への配慮や編集倫理を凌駕してしまうメディア企業のガバナンス不全。
- 構造的差別の黙認: 在日コリアンをはじめとするマイノリティが直面する社会の現実を無視した、無知かつ悪意に満ちた言説が「言論」としてまかり通ってしまう社会の鈍感さ。
この騒動は、私たちに重い問いを投げかける。メディアは、自らが持つ強大な影響力を自覚し、ゲートキーパーとしての社会的責任をどう再定義するのか。そして、私たち市民・読者は、情報の受け手として、差別を助長する言説に「NO」を突きつけ、健全な言論空間を守るために、いかなる批判的リテラシーを身につけるべきなのか。
この問いへの応答こそが、同様の悲劇を繰り返さないために、今の私たちに課せられた責務である。この事象を一過性の炎上として消費するのではなく、より公正で包摂的な社会を構築するための議論の出発点としなければならない。
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