1. 導入:静岡の悲劇から学ぶ、救急医療システムに潜む複合的課題
2025年7月30日(提供情報内の日付に基づき記載)、静岡県掛川市で報じられた「救急車出動見送りによる50代男性の死亡」という悲劇は、単なる個別の判断ミスとして片付けられるものではありません。この事案は、私たちの社会が抱える救急医療システムにおける根深い課題、すなわち「情報伝達の非対称性」「緊急性判断の複雑性」、そして人間の判断を歪める「認知バイアス」が複合的に作用した結果として深く分析されるべきです。
本稿では、この痛ましい出来事を起点とし、提供された情報を詳細に掘り下げながら、通報者と指令員の間の情報ギャップ、緊急度判断における人間の心理的・認知的側面、そして現代の救急システムが直面する資源配分のジレンマに迫ります。最終的に、このような悲劇を二度と繰り返さないために、市民側の「具体的かつ客観的な情報提供能力」の向上と、消防・救急機関側の「多層的な判断プロセスの強化」「継続的な研修」、そして「AIなどの技術的支援の導入」がいかに不可欠であるかを深く考察します。
2. 悲劇の連鎖:119番通報における「時間」の重みと情報非対称性
今回の事案は、昨年10月、静岡県磐田市の中東遠消防指令センターへの一本の119番通報から始まりました。
静岡県磐田市の中東遠消防指令センターが昨年10月、同県掛川市の50代男性の家族から「2日間ぐらい動けない」と119番を受けたが救急車を出動させず、男性がその後死亡していたことが29日、関係者への取材で分かった。
引用元: 救急車「出動せず」男性死亡 静岡、緊急性誤判断か(共同通信)
この引用から、通報内容が「2日間ぐらい動けない」であったことが示されています。この「2日間」という時間経過の情報は、指令員にとって諸刃の剣となりえます。一般的に、突発的な症状と比較して、数日間の経過がある症状は、直ちに生命を脅かす緊急性が低いと判断される傾向があるかもしれません。しかし、この「動けない」という漠然とした表現の裏には、様々な病態が隠されうるため、その緊急度判断は極めて困難です。
さらに、事態は悪化の一途を辿ります。
約5時間半後に再度通報を受けて向かったが既に心肺停止状態だった。
引用元: 救急車「出動せず」男性死亡 静岡、緊急性誤判断か(共同通信)
最初の通報から約5時間半後、男性は心肺停止状態に陥っていました。この「5時間半」という空白の時間は、医療における「ゴールデンアワー(Golden Hour)」の概念と対比することで、その重みがより明確になります。ゴールデンアワーとは、外傷や一部の急性疾患(例:心筋梗塞、脳卒中)において、発症から治療開始までの最初の1時間以内が、患者の予後を大きく左右する極めて重要な時間である、という医療上の原則です。もちろん、今回のケースがゴールデンアワーに直接的に当てはまる病態であったかは不明ですが、5時間半もの間、適切な医療介入が行われなかったことが、男性の心肺停止に直結した可能性は否定できません。
この一連の事態は、通報者と指令員との間に存在する「情報伝達の非対称性」を浮き彫りにします。通報者は家族の異変を直感的に感じていますが、その症状を医療専門用語で的確に表現する能力は持ち合わせていません。一方、指令員は限られた情報の中で緊急度を判断しなければならず、通報者の「漠然とした訴え」と、その背後にある「切迫した状況」との間にギャップが生じやすいのです。
3. 判断の深層:「先入観」が招いた認知バイアスとヒューマンファクター
なぜ最初の通報で救急車が出動しなかったのか、その原因は指令員の反省の弁に深く示唆されています。
対応した係はてん末書で「緊急ではないという先入観にとらわれた」「容体を詳細に聴取すべきだった」などとした。
引用元: 救急車出動せず男性死亡 静岡の司令センターが緊急性誤判断か「緊急ではないと先入観」
「緊急ではないという先入観にとらわれた」という言葉は、人間の意思決定における「認知バイアス」の存在を示唆しています。この場合、特に「アンカリング(Anchoring Bias)」と「確証バイアス(Confirmation Bias)」が作用した可能性が考えられます。
- アンカリング(Anchoring Bias): 最初に得た情報(例:「2日間ぐらい動けない」という比較的長期の経過)が、その後の判断に強く影響を与え、それに引きずられてしまう傾向です。この「2日間」という情報が、指令員に「急を要するものではない」という初期のアンカー(基準点)を形成させた可能性があります。
- 確証バイアス(Confirmation Bias): 一度形成された仮説(例:「緊急ではない」)を裏付ける情報ばかりを探し、それに反する情報を軽視したり無視したりする傾向です。初期の「緊急ではない」という先入観が、その後の詳細な聴取において、重要な症状を見落としたり、その深刻度を過小評価したりする原因となったかもしれません。
また、「容体を詳細に聴取すべきだった」という反省は、ヒューマンファクターの観点からも重要です。119番の指令員は、限られた時間、精神的プレッシャーの中で、非専門家である通報者から必要な情報を引き出し、適切なプロトコルに沿って判断を下す必要があります。このプロセスは、複雑な情報処理と意思決定を伴い、人間の集中力や経験、そしてシステム設計に大きく依存します。情報聴取プロトコルの不備や、疲労、訓練不足などが、このようなエラー発生のリスクを高める要因となりえます。この事案は、個人の能力に依存するだけでなく、組織全体としてエラーを未然に防ぐためのシステムデザインの重要性を強く示唆しています。
4. 救急システムのアロケーションとトリアージの課題
日本を含む多くの国々で、救急搬送要請は年々増加の一途を辿っています。軽症事案や不急の搬送が増える中で、救急資源(救急車、隊員)は常に逼迫しており、真に緊急性の高い事案への対応が遅れるリスクが顕在化しています。この状況下で、119番指令員は、限られた資源を最適に配分するためのトリアージ(Triage)の役割を担っています。
トリアージとは、多数の傷病者が発生した際に、医療資源の制約下で、最大限の救命効果を得るために、傷病者の緊急度・重症度に基づいて治療の優先順位を決定することです。しかし、電話口でのトリアージは、視覚情報がなく、通報者の表現力に依存するため、現場でのトリアージよりもはるかに高い難易度を伴います。
このような背景から、私たち市民一人ひとりが、緊急時に指令員が正確な判断を下せるよう、「伝える力」を磨くことが喫緊の課題となります。指令員が求める具体的な情報を的確に伝えることは、適切な救急資源の迅速な投入に直結し、結果として命を救う可能性を高めます。
- 1. 具体的な症状を伝える:
- 単に「動けない」ではなく、「具体的に何がどのように動かせないのか」を伝えます。例えば、「右半身が全く動かせない」「立つと激しいめまいがして倒れそうになる」など、動作の具体的な障害とその程度を明確にしましょう。
- 医療現場で用いられる症状把握のフレームワーク「OPQRST」の一部を意識すると良いでしょう。
- O (Onset: いつから): 「2日前から」だけでなく、「2日前から寝たきり状態になり、昨日から意識が朦朧としています」のように、時間の経過に伴う症状の変化を具体的に伝えます。
- Q (Quality: どんな症状か): 「動けない」の種類(麻痺、脱力、痛みによる制限など)や、付随する症状(意識レベルの変化、呼吸困難、胸痛、発熱、嘔吐など)を具体的に説明します。
- R (Region/Radiation: どこが、広がりは): 「お腹が痛い」だけでなく、「みぞおちから背中にかけて激しい痛みが広がる」など、具体的な部位と放散痛の有無を伝えます。
- S (Severity: どのくらいの程度か): 「すごく痛い」ではなく、10段階評価で「10段階中8くらいの激痛」や、「普段の痛みの何倍か」など、客観的な尺度で重症度を伝えます。
- T (Time: 時間経過): 症状の持続時間や、悪化・改善のサイクルを明確に伝えます。
- 2. 意識レベルの変化を伝える:
- 「意識はあるか?」という質問には、「名前を呼ぶと目を開けるが、すぐにまた寝てしまう」「全く反応がない」など、具体的な反応の程度を伝えることが、脳血管障害や低血糖など緊急性の高い病態の可能性を判断する上で非常に重要です。
- 3. 呼吸の状態を伝える:
- 「呼吸はどうか?」に対して、「ゼーゼーと苦しそう」「浅くて速い」「全くしていないように見える」など、呼吸音や速さ、努力呼吸の有無を伝えることで、呼吸器系の緊急性を判断できます。
- 4. 焦らず、質問に正確に答える:
- 緊急時におけるパニックは理解できますが、指令員は訓練を受けたプロです。彼らの質問は、適切な判断を下すために必要な情報を引き出すためのものです。感情的にならず、質問に一つずつ、できる限り正確に答えることが、迅速な救急車出動に繋がります。
これらの具体的な情報が的確に伝わることで、指令センターはより正確な緊急度判断を下し、必要な場合は速やかに救急車を出動させることができます。
5. 未来を見据えた解決策:技術と教育の両輪で挑む
今回の事案を受けて、中東遠消防指令センターをはじめとする多くの救急指令センターでは、再発防止に向けた取り組みを強化することでしょう。具体的には、指令員の継続的な研修の見直し(特に認知バイアスへの認識と対策、詳細な聴取スキルの向上)や、緊急度判断基準のマニュアル改訂が考えられます。
さらに、近年注目されているのがAI(人工知能)を活用した緊急性判断支援システムの導入です。
- 自然言語処理(NLP)による通話内容分析: 通話内容をリアルタイムで分析し、特定のキーワード(例:「意識がない」「胸が苦しい」「呼吸ができない」など)や症状の組み合わせから緊急性の高いパターンを自動検知するシステム。これにより、人間の聞き逃しや判断の遅れを補完する可能性があります。
- 機械学習を用いた緊急度予測: 過去の膨大な通報データ、症状、結果(搬送後の診断、予後)を機械学習させることで、新たな通報があった際に、その症状がどの程度の緊急性を持つかを統計的に予測し、指令員の判断を支援します。これは、指令員の経験や直感に頼る部分を客観的なデータに基づいて補強するものです。
- 対話型AIによる症状把握支援: 通報者に対して、AIが自動で質問を投げかけ、必要な情報を引き出すプロセスを支援することで、情報伝達の非対称性を低減する可能性も秘めています。
しかし、AIも万能ではありません。AIはあくまで過去のデータに基づいて学習するため、稀な症状や非定型的な病態への対応には限界があります。また、人間が発する感情やニュアンス、背景情報といった非言語的要素の理解は依然として人間の指令員に依存します。したがって、AIは「判断を代行する」のではなく、「人間の判断を支援・補強する」ツールとして位置づけられるべきであり、最終的な責任は常に人間が負うべきです。技術の進歩と同時に、指令員の専門的スキルと倫理観の向上は不可欠であり、これら二つの要素が両輪となって救急システムをより強固なものにしていく必要があります。
6. 結論:生命を守るための協働と持続的改善
静岡で起きた痛ましい事案は、私たち全員が、緊急時の「伝える力」と「受け取る力」を再考する重要な機会を提供しました。この悲劇が示すのは、単なる個人の過失ではなく、救急医療システム全体に潜む構造的な課題、そして人間が持つ認知的限界です。
生命を守るという究極の目標に向けて、私たち市民は、緊急時に的確かつ具体的な情報を提供するためのリテラシーを高めるべきです。同時に、消防・救急機関は、ヒューマンファクターを考慮したより堅牢な判断プロトコルの構築、継続的な専門的研修、そしてAIやデータ分析といった先進技術の積極的な導入を通じて、緊急度判断の精度と効率性を飛躍的に向上させる必要があります。
この事案を教訓に、市民、消防、医療関係者、そして技術開発者が一体となり、相互に協力し、持続的な改善努力を重ねていくことが、未来の悲劇を防ぎ、より安全で安心な社会を築くための不可欠な道標となるでしょう。
コメント