「シン・エヴァンゲリオン劇場版」が一部のインターネットコミュニティ、特に「なんでも実況J」(なんJ)において「つまんなすぎてワロタwwwwwwww」と揶揄される現象は、一見すると作品の評価が二極化しているように見えます。しかし、この一見否定的な声の裏には、長年「エヴァンゲリオン」シリーズが築き上げてきた「名作」という評価への揺るぎない期待と、それに対する極めて批評的な再定義を求める熱量の高まりが潜んでいます。本稿では、この現象を単なる好みの問題として片付けるのではなく、作品の芸術的・文化的文脈、そして現代における「物語」への受容の変容という観点から深く掘り下げ、その真意を探求します。
1. 「名作」という重圧と「期待値の乖離」:ネットミームにみる評価の逆説
「なんJ」のような匿名掲示板における批判的な言説は、しばしば挑発的で過激な表現を伴います。「なんやこれ こんなのが名作扱いされとるんか」といった声は、この文脈においては、長年にわたり「エヴァンゲリオン」が「神アニメ」「金字塔」といった形容詞と共に語られてきたことへの、ある種の反発や懐疑心を示唆しています。これは、作品そのものへの純粋な低評価というよりは、「それほどまでに高く評価されるべき要素が、私の期待値や解釈には合致しなかった」という、期待値と現実の乖離に対する率直な、しかし非洗練された表明と捉えるべきでしょう。
「エヴァンゲリオン」シリーズは、その社会現象とも言える人気と、庵野秀明監督の哲学的なメッセージ、そして難解とも評される演出により、単なるアニメ作品の枠を超え、一種の文化的アイコンとなりました。特に、1990年代後半から2000年代にかけての「エヴァ現象」は、アニメファンのみならず、一般層にも広く影響を与え、「エヴァンゲリオン」は「名作」という揺るぎない地位を確立しました。
しかし、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、シリーズの長きにわたる歴史、そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ独自の物語展開を経て、それまでの「エヴァンゲリオン」とは異なる、より内省的で、ある意味では「決着」をつけた作品です。そのため、過去作の熱狂的なファン、あるいは「エヴァ」に特定のイメージを抱いていた層にとっては、その期待する「名作」の姿と、「シン・エヴァ」が提示する「決着」の形との間に、想像以上のギャップが生じることがあり得ます。このギャップこそが、「つまんなすぎてワロタ」という表現に象徴される、皮肉な評価の温床となっているのです。
2. 「幻覚」論の深層:ポストモダニズム的現実認識と「エヴァ」の解釈
「幻覚でも見えてんのか」という言葉は、一見すると作品のリアリティや整合性への疑問を呈しているように聞こえます。しかし、これを「エヴァンゲリオン」シリーズ、特に「シン・エヴァ」が内包するポストモダニズム的な世界観というレンズを通して見ると、新たな解釈が生まれます。
「エヴァンゲリオン」シリーズは、常に現実と非現実、主観と客観、自己と他者の境界線が曖昧な世界を描いてきました。特に、心理描写の極端なデフォルメ、シンボリックな演出、そして登場人物たちの内面世界への深い没入は、視聴者に「何が真実なのか」という問いを突きつけます。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」では、この傾向がさらに顕著になります。物語の終盤、特に第3村やマリの役割、そして最終的な「終焉」の描写は、それまでのSF的な設定や論理的な説明を超えた、ある種の「象徴」としての意味合いを強く帯びます。この「象徴」としての世界観を、従来の「物語」の枠組みで捉えようとすると、「幻覚」や「現実離れ」といった言葉で表現されることになります。
これは、現代社会において、情報過多やメディアの氾濫により、現実と虚構の区別が曖昧になりつつある我々の認識様式と共鳴する側面があります。作品が描く「現実」が、必ずしも明確な物理法則や論理に基づいたものではなく、登場人物たちの「内面」や「感情」によって再構築されているという事実は、視聴者に対し、「現実とは何か」「物語はどのように成立するのか」という根本的な問いを投げかけているのです。この問いへの戸惑い、あるいはそれを「幻覚」と断じる行為は、ある意味で、現代における「物語」の受容の仕方の変化、そして「現実」に対する我々の認識の揺らぎを映し出していると言えるでしょう。
3. 「生きること」への問い直し:世代を超える普遍性と「エヴァ」の進化
「エヴァンゲリオン」シリーズが、単なるSFアクションに留まらず、長きにわたり世代を超えて共感を呼び続ける最大の理由は、その根底に流れる「生きること」への普遍的な問いにあります。思春期の繊細な感情、自己肯定感の低さ、他者とのコミュニケーションにおける苦悩、そして「なぜ自分はここにいるのか」「どう生きていくべきなのか」という根源的な問い。これらは、時代や文化を超えて、人間の普遍的な葛藤であり、だからこそ多くの人々の心に響くのです。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、この「生きること」への問いかけを、シリーズの最終到達点として、より成熟した、しかし決して甘くない形で提示しました。旧シリーズで描かれた「傷つき、傷つけ合う」登場人物たちは、「シン・エヴァ」で、それぞれの方法で「他者」との繋がりを再構築し、あるいは「自分自身」を受け入れようとします。
特に、庵野監督自身が、過去の「エヴァ」制作で抱えていた葛藤や苦悩を、登場人物たちの物語に投影していると推察する専門家も少なくありません。これは、作品が単なるフィクションに留まらず、作者自身の内面的な探求の軌跡でもあることを示唆しています。
「シン・エヴァ」が描く「決着」の形は、決して全肯定的なハッピーエンドではありません。むしろ、過去の過ちや苦悩を抱えながらも、それでも「生きていく」という、より現実的で、地に足のついた希望を示唆しています。この、ある種の「不完全さ」と「継続性」を含んだ「決着」こそが、多くの視聴者に深い感動と、「自分もまた、この世界で生きていくことができる」という共感を与えているのではないでしょうか。
結論:ネットミームに隠された「名作」論争の熱量と、深化する「エヴァ」の意義
「なんJ」における「シン・エヴァつまんなすぎてワロタ」という言説は、表面的な批判に見えながらも、その背後には「エヴァンゲリオン」という作品が背負う「名作」という称号への熱量と、それに対する現代的な再解釈の要求が潜んでいます。それは、作品が提示するポストモダニズム的な現実認識への戸惑い、そして「生きること」という普遍的なテーマに対する、極めて個人的かつ批評的な応答なのです。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、過去の「エヴァンゲリオン」の遺産を受け継ぎつつも、新たな次元へと進化を遂げました。その難解さや、一部の視聴者の期待との乖離は、むしろ作品の持つ芸術的深みと、多様な解釈の可能性を示唆しています。
この作品を巡る議論は、単にアニメの評価に留まらず、現代社会における「物語」の受容、「現実」とは何か、そして「生きること」の意味を問い直す、極めて現代的な文化的現象と言えるでしょう。「エヴァンゲリオン」シリーズは、これからも私たちに問いかけ続け、そして、その「名作」としての意義を、時代と共に更新し続けるはずです。この論争は、むしろ「エヴァ」が、これからも私たちにとって重要な「問い」を投げかけ続ける作品であり続けることの証左なのです。


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