【専門家詳報】致死率27%のSFTS、感染拡大の真相 ― これは気候変動が突きつける「ワンヘルス」の警鐘である
2025年08月20日
はじめに:本稿が提示する結論
マダニ媒介感染症「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」の国内患者数が観測史上最多を更新し、その脅威が東日本へ拡大しているという事実は、単なる公衆衛生上の警報ではありません。これは、気候変動や生物多様性の変化といった地球規模の環境変容が、人間社会の健康を直接的に脅かす「ワンヘルス(One Health)」という概念を象徴する、極めて重要な事象です。 この見えざる脅威に真に立ち向かうためには、個人の防御策の徹底はもちろんのこと、環境・動物・人間の健康を統合的に捉える学際的な視点と、それに基づいた社会システムの構築が不可欠である、というのが本稿の結論です。本記事では、この結論を裏付ける科学的知見を多角的に解説していきます。
1. SFTS:単なる感染症ではない、その病態生理学的本質
SFTSを正しく理解するには、その致死率の高さと重症化のメカニズムを分子レベルで捉える必要があります。
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ウイルスの正体と病態: SFTSウイルスは、ブニヤウイルス目フレボウイルス科に属するRNAウイルスです。感染すると、6~14日の潜伏期間を経て、発熱、消化器症状と共に、本疾患の指標である血小板および白血球の著しい減少を引き起こします。この血球減少は、ウイルスが骨髄の造血前駆細胞に直接感染しその機能を抑制すること、また、免疫系がウイルス感染細胞を攻撃する過程で正常な血球も破壊してしまう免疫介在性の機序が複合的に関与していると考えられています。
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致死率27%の背景にある「サイトカインストーム」: 国内致死率約27%という数値は、特に高齢者で上昇する傾向にあります。重症化の鍵を握るのが、免疫系の過剰反応である「サイトカインストーム」です。ウイルスに対抗するために放出されるサイトカインという情報伝達物質が制御不能なレベルで産生され、自身の体を攻撃し、多臓器不全を引き起こします。これがSFTSにおける主要な死因の一つです。
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治療の最前線と限界: SFTSに対する特異的な治療薬やワクチンは存在しません。現在、臨床現場では輸液や輸血などの支持療法が中心となります。抗インフルエンザ薬「アビガン(ファビピラビル)」がウイルスの増殖を抑制する可能性から研究・使用されていますが、その効果は限定的であり、確立された治療法とは言えません。治療薬開発が難航する背景には、ヒトでの病態を正確に再現できる動物モデルの確立が困難であるといった研究上の課題も存在します。
2. 感染拡大の生態学的ドライバー:なぜ今、東日本なのか?
2025年の患者数135人という過去最多記録と、北海道を含む東日本への拡大は、複数の生態学的要因が複雑に絡み合った結果です。
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ドライバー1:気候変動によるマダニの時空間的拡大: 地球温暖化は、マダニの活動可能期間を延長させ、越冬可能な地域を北上させています。従来、マダニの活動は春から秋とされていましたが、暖冬の影響で冬季でも活動する個体が確認されており、感染リスクが年間を通じて存在するようになっています。これが年間患者数の増加に直結する基盤的要因です。
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ドライバー2:宿主動物の分布変化と人社会との接近: SFTSウイルスは、マダニの主要な吸血源であるシカやイノシシなどの野生動物の間で維持されています。これらの野生動物は、耕作放棄地の増加や狩猟者の高齢化などを背景に個体数を増やし、生息域を都市近郊まで拡大させています。つまり、ウイルスを保有したマダニが、宿主動物という「運び屋」に乗って、人間の生活圏へかつてないほど接近しているのです。東日本での患者発生は、このマダニと宿主動物の生態系シフトが新たな地域に到達したことを示唆します。
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ドライバー3:ウイルスの広域拡散メカニズム: マダニの移動範囲は限定的ですが、その幼ダニや若ダニは渡り鳥に付着して長距離を移動することが知られています。大陸から飛来する渡り鳥が、新たな遺伝子型のSFTSウイルスを日本国内に運び込み、在来のマダニにウイルスが伝播することで、感染地域がモザイク状に拡大している可能性も遺伝子解析研究から指摘されています。
3. 科学的根拠に基づく包括的予防戦略
SFTSが「環境・動物・ヒト」の連関から生じる疾患である以上、その予防策も多層的でなければなりません。
Tier 1: 個人の徹底防御(パーソナル・プロテクション)
- 物理的防御: 長袖・長ズボン、裾の靴下イン、明るい色の服といった基本的な対策は極めて有効です。特に、マダニは地面に近い場所から這い上がってくるため、足元の防御が重要です。
- 化学的防御: 忌避剤(リペレント)の選択には科学的理解が求められます。「ディート」は最も効果が持続しますが、プラスチック製品を溶かす性質や年齢制限があります。「イカリジン」は子供への使用制限が緩やかで素材への影響も少ないですが、持続時間はやや短くなります。両者の特性を理解し、活動時間や場所に応じて使い分けることが賢明です。さらに、アウトドアウェアの中には、殺虫成分「ペルメトリン」を繊維に固着させた製品もあり、マダニを寄せ付けず、付着しても殺傷する高い効果が期待できます。
Tier 2: 生活圏の管理(ペリドメスティック・コントロール)
- ペット由来のリスク遮断: ペット(特に犬)は、散歩中にマダニを拾い、家庭内に持ち込む「トロイの木馬」となり得ます。定期的なマダニ駆除薬の投与は、ペットを守るだけでなく、家族全員をSFTSやその他のマダニ媒介感染症から守るための公衆衛生上極めて重要な措置です。
- 環境整備: 自宅の庭や周辺の草刈りを定期的に行い、マダニの潜む環境を減らすことも有効です。
4. もし咬まれてしまったら:臨床現場での最善手と知るべきこと
万が一マダニに咬まれた場合、その後の対応が予後を大きく左右します。
- 禁忌:自己流での除去: 無理に引き抜こうとすると、マダニの口器が皮膚内に残留し、異物反応による皮膚炎の原因となります。さらに重要なのは、マダニの体液(ウイルスを含む可能性がある唾液)が体内へ逆流し、感染リスクを高めてしまうことです。これは、注射器のピストンを押すような行為に他なりません。
- 推奨:速やかな医療機関受診: 皮膚科などの医療機関では、マダニ除去専用のピンセットや、場合によっては局所麻酔下で口器ごと皮膚を小切除する方法で、安全かつ確実な除去が行われます。
- 最重要:咬傷後の体調観察と申告: 咬傷後、最低2週間は発熱や倦怠感などの初期症状に注意してください。これらの症状は一般的な風邪と酷似しているため、医療機関を受診する際は、「いつ、どこでマダニに咬まれた可能性があるか」を医師に伝えることが、早期診断・早期治療への最も重要な鍵となります。この情報がなければ、SFTSの診断は遅れがちになります。
結論:SFTSが私たちの社会に突きつける未来への問い
SFTSの過去最多更新と東日本への拡大は、もはや西日本の一部地域の風土病ではなく、日本全体が直面する公衆衛生上の恒常的な脅威へと変貌したことを意味します。
この現実は、私たちに厳しい問いを投げかけています。それは、気候変動というマクロな事象が、マダニというミクロな生物の生態をどう変え、私たちの健康というパーソナルな問題にどう直結するのか、という問いです。本稿で詳述した通り、この脅威は「ワンヘルス」の視点なくしては理解も対策も不可能です。
今後、私たちは個人の予防策を社会の常識として定着させると同時に、より大きな枠組みでの対策を推進しなければなりません。具体的には、全国的なマダニ・ウイルス保有状況の継続的サーベイランス(監視)体制の強化、迅速診断キットの開発、そして治療薬やワクチンの研究開発への投資が必要です。さらに、野生動物の個体数管理や土地利用計画といった、これまで感染症対策とは別分野とされてきた政策領域との連携も不可欠となるでしょう。
SFTSは、自然との共存のあり方が問われている時代の象徴です。この見えざる脅威に対し、科学的知見に基づいた冷静な理解と、個人と社会が一体となった行動をとり続けること。それこそが、私たち自身と未来の世代を守る唯一の道なのです。
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