2025年09月10日
札幌市南区のゴルフ場敷地内において、許可なくヒグマを射殺したハンターに対し、北海道警察が鳥獣保護管理法違反(無許可駆除)の疑いで厳罰に処す方針を固めた。この事案は、地域住民の喫緊の安全確保という現実的課題と、厳格な法規制遵守の必要性との間で、深刻な対立構造を浮き彫りにした。本稿では、この事案における法的論点を多角的に分析し、特に「緊急避難」の法理の適用可能性とその限界、そして野生動物との共存という現代社会が抱える根源的な課題に深く切り込む。結論として、本件におけるハンターの行為は、法治国家における規律維持の観点から厳正な処分が不可避である一方、その背景にある「野生動物による脅威」という問題そのものへの、より包括的かつ実効性のある対策の構築こそが、社会全体に課せられた急務である。
1. 事案の概要:ゴルフ場に潜む「非日常」と、一発の銃声
事件の発端は、2025年9月4日午前11時頃、札幌市南区の「滝のカントリークラブ」敷地内へのヒグマの出没であった。3日連続の出没という事実に、ゴルフ場側は利用客・従業員の安全確保のため、屋内退避という措置を講じた。しかし、この緊迫した状況下で、一人のハンターが、4~5メートルという至近距離から接近してきたヒグマに対し、自らの生命の危機に瀕したと判断し、発砲。結果、ヒグマ1頭は射殺された。ゴルフ場関係者の証言からは、ヒグマの誘引原因となりうる餌の有無に関する検証依頼や、利用者への安全配慮の念が伺える。しかし、この「緊急時」の対応が、後の法的な問題へと発展することになる。
2. 法的な論点:緊急避難の適用可能性とその峻厳なる壁
本件で最も重要な法的論点は、ハンターの射殺行為が、刑法上の「緊急避難」(刑法第37条)として正当化されるか否かである。緊急避難とは、自己または他人の生命、身体、自由、または財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずに行われた他人の権利・法益に対する侵害行為を、一定の条件下で違法性を阻却するものとすることである。
しかし、その適用には極めて厳格な要件が存在する。
- 危難の明白性・現実性: ヒグマが実際にどの程度の脅威であったのか、その接近の度合い、攻撃性の有無、そしてハンターが認識していた状況が、客観的に見て「現在の危難」と評価できるレベルであったかどうかが問われる。単なる「遭遇」や「威嚇」ではなく、生命・身体への具体的な危険が差し迫っていたことを証明する必要がある。例えば、ヒグマが威嚇の姿勢を示し、攻撃を意図した行動をとっていたか、あるいはハンターが逃走する経路がなく、防御の手段が発砲以外に存在しなかったか、といった詳細な状況証拠が不可欠となる。
- 避難行為の必要最小限度性: 危難を避けるために、他に取るべき手段が一切なかったのか、という点が極めて重要となる。例えば、威嚇射撃による撃退、安全な場所への避難、あるいは周囲への助けを求める行動など、発砲よりも被害の少ない手段が存在しなかったかが問われる。ゴルフ場という開けた場所であったことを考慮すると、仮にヒグマが興奮状態にあったとしても、直ちに殺傷能力のある発砲が必要であったかという疑念は拭えない。
- 避難行為の相当性: 避難行為によって侵害される法益と、避難によって避けられる危難の法益との間に、均衡が保たれているかどうかも判断基準となる。本件では、ヒグマという野生動物の生命という法益が侵害された。この侵害が、ハンター自身の生命を守るために「やむを得ない」と社会通念上、あるいは法的に判断できるかどうかが焦点となる。
さらに、本件におけるハンターは、猟友会に所属しておらず、ヒグマのような特定鳥獣保護管理法で厳しく管理されている大型獣の駆除権限を、都道府県知事から正式に委任・許可されていなかった。鳥獣保護管理法(第9条、第64条)は、鳥獣の捕獲等について原則として許可制を定めており、無許可での捕獲・殺傷は罰則の対象となる。シカ免許のみを有していたという事実は、ヒグマ駆除に関する法的な権限や知識、経験が不足していた可能性を示唆しており、緊急避難の要件である「必要最小限度性」や「相当性」の判断において、不利に働く可能性が高い。
3. 北海道警察の厳罰方針:法秩序維持への決意と、その背景にある懸念
北海道警察が厳罰に処す方針を固めた背景には、法秩序の維持という公安上の責務がある。許可なき野生動物の駆除は、単なる個人の行為にとどまらず、野生動物の適正な管理・保護を目的とする法制度そのものの根幹を揺るがしかねない。特に、ヒグマは北海道における象徴的な存在であり、その保護と管理は、地域社会の持続可能性にとっても重要な意味を持つ。
過去にも、同様の無許可駆除事案は散見されるが、本件はゴルフ場という不特定多数が利用する施設で発生し、目撃者も複数存在した可能性が高いことから、社会的な関心も極めて高い。警察としては、このような事案を厳正に処罰することで、「法は万人に等しく適用される」という原則を再確認し、同様の行為の抑止を図ることで、社会全体の規律維持に努める強い意志を示していると解釈できる。
しかし、この厳罰方針の裏側には、野生動物との共存という、より根源的な問題に対する社会的な対応の遅れへの懸念も内包されている。ヒグマの生息域と人間活動圏の重複は、全国的に拡大傾向にあり、特に北海道では深刻な課題となっている。住民の安全確保と、野生動物の保護・管理との間で、常に緊張関係が存在する。警察による厳罰化は、一定の抑止効果は期待できるものの、根本的な解決には至らない可能性も指摘される。
4. 地域社会への影響と、野生動物との共存戦略の再構築
本件は、札幌市南区におけるヒグマの出没が、地域住民にとって長年にわたる安全上の懸念事項であることを改めて浮き彫りにした。ゴルフ場での事案は、その危険性を社会全体に認識させる契機となった。しかし、同時に、野生動物との共存という、現代社会が避けて通れない課題の難しさを、より一層突きつけたとも言える。
- 野生動物との共存戦略の再構築: ヒグマの行動圏の拡大は、気候変動、生息環境の変化、餌資源の変動など、複合的な要因によるものと考えられている。単なる駆除や捕獲制限といった受動的な対策だけでなく、人間活動圏へのヒグマの接近を抑制するための積極的な対策(餌資源の管理、生息環境の整備、住民への啓発活動の強化など)が求められる。
- 住民の安全確保と情報共有: 万が一の事態に備え、地域住民が取るべき具体的な行動指針の明確化と、迅速かつ正確な情報共有体制の確立が急務である。住民一人ひとりが、リスクを正しく認識し、冷静に対応できるような教育・訓練も重要となる。
- 法規制と現場の実情との乖離: 緊急避難の法理のように、法規制が現場の緊迫した状況にどこまで柔軟に対応できるのか、という議論も避けては通れない。法は一般論に基づいて制定されるが、現実の事象は極めて個別的かつ動的である。緊急時における、より実効性のある判断基準や、一時的な対応に関するガイドラインの整備も、将来的な検討課題となるだろう。
5. 結論:法と安全の調和、そして野生動物との未来への眼差し
札幌市南区のゴルフ場におけるヒグマ射殺事案は、野生動物による脅威に直面した人間の行動が、厳格な法規制とどのように衝突するのかを鮮明に示した。北海道警察が厳罰に処す方針を固めたことは、法治国家における規律維持という観点から、理論的かつ合理的な帰結である。これは、野生動物の保護・管理という公共の利益を守るための、断固たる姿勢の表れと言える。
しかし、この厳格な法的判断は、地域住民が抱える「生命の安全」という切実な問題への十分な配慮を欠くものであってはならない。本件が、単なる法違反の摘発に終わるのではなく、野生動物とのより良い共存のあり方、そして、緊急時における人間と野生動物双方の安全を最大限に考慮した、実効性のある対策を社会全体で模索する契機となることを強く期待したい。法を遵守しつつ、いかにして地域住民の安全を守り、北海道の豊かな自然環境と共存していくのか。そのための知恵と、持続可能な共存戦略の構築こそが、今、私たちに厳しく問われている。この課題への取り組みは、北海道のみならず、全国の野生動物との共存が模索される地域における、未来への羅針盤となるだろう。
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