「また円安か……」「物価高で給料が追いつかないよ」。最近、こんなため息をつくことが増えていませんか?「海外は遠い夢?」という問いかけが現実味を帯びる中、多くの日本人が海外旅行を諦めざるを得ない状況に直面しています。その一方で、日本の観光地は外国人観光客で活況を呈し、街角では異国の言葉が飛び交う光景が日常となりました。
このコントラストは、単なる旅行トレンドの変化を超え、日本の経済状況、ひいては国民の「豊かさ」そのものの変容を象徴しています。本稿の結論として、日本人の海外旅行がコロナ禍前の水準に回復しない背景には、歴史的な円安と物価高騰が引き起こす購買力の構造的な低下があり、これはグローバル経済における日本の相対的貧困化、さらには国民の国際的な移動の自由と文化交流機会の喪失という、深刻な構造的課題を示唆していると断じることができます。本記事では、この「失われた豊かさ」の正体を、最新データと専門的な視点から深掘りし、その因果関係と多角的な影響を考察します。
1. 回復遠き国際移動:データが示す日本人出国者数の厳しい現実
コロナ禍の収束後、「自由に海外に行けるようになった」という高揚感とは裏腹に、日本人の海外旅行は期待されたような回復を見せていません。この現実は、単なる一時的な現象ではなく、より根深い経済的構造の変化を示唆しています。
日本政府観光局(JNTO)や旅行業界のデータが示すように、2024年の日本人出国者数(海外旅行者数)は1300万人台に留まっています。
国学院大学・観光まちづくり学部の塩谷英生教授が観光統計の読み解くコラム。今回は、日本の若者の「海外旅行離れ」について。出入国管理統計による2024年の海外旅行者数は、1301万人となっています(出国者数ベース。1万人未満四捨五入)。
引用元: 若者の「海外旅行離れ」は本当か? 年代別の出国率は20代がトップ – トラベルボイス(観光産業ニュース)
この数字は、コロナ禍前の2019年に記録した過去最高の2000万人突破という水準と比較すると、7割未満にとどまっている現状を浮き彫りにします。
2013年以降は減少が続いていたが、2016年に増加に転じ、2019年は2000万人を突破し、過去最高を記録した。
引用元: 5. 海外旅行者数の推移 | 一般社団法人日本旅行業協会
つまり、この回復の遅れは、単に移動制限が解除されただけでは需要が戻らないという、日本市場特有の脆弱性を示しています。2023年には前年比で大幅な増加が見られたものの、それでもピーク時の水準には遠く及ばない状況です。
2020年からのコロナ禍による減少を経て、2023年は前年比247.2%増となっているが、2019年比ではまだ十分な回復には至っていない。
引用元: 6. 海外旅行者数の推移 | 一般社団法人日本旅行業協会
さらに、年末年始のような大型連休でさえ、海外旅行需要を大きく押し上げるには至りませんでした。
年末年始の9連休という絶好の日並びも、海外旅行の需要回復の大きな後押しにはならなかったものの、
引用元: 【図解】日本人出国者数、2024年は1300万人超え、2019年の7割未満にとどまる – トラベルボイス(観光産業ニュース)
これらのデータは、日本人の海外旅行に対する心理的な障壁だけでなく、経済的な制約が深刻化していることを裏付けています。コロナ禍以前の経済成長期には、日本人の海外旅行は国民の豊かさを示す指標の一つでした。しかし、現在では、海外への「移動の自由」が、実質的な経済的制約によって大きく損なわれている現状が明確に示されています。これは、国際的な文化交流の機会減少にも直結し、長期的には日本の国際感覚や多様性の受容にも影響を及ぼしかねない構造的課題です。
2. 購買力崩壊の複合要因:物価高と歴史的円安の猛威
日本人が海外旅行に行けなくなった最大の要因は、間違いなく「国内外の物価高」と「歴史的な円安」がもたらす購買力の劇的な低下です。この二重苦は、海外旅行を「高嶺の花」へと変貌させ、冒頭で述べた「豊かさの喪失」の核心を突いています。
JTBの2025年の旅行動向見通しでも、この点は明確に指摘されています。
海外旅行について、2024年は国内外の物価高、円安、世界的な政情不安などの影響により、海外旅行者数の回復は遅れています。
引用元: 2025年(1月~12月)の旅行動向見通し|ニュースルーム|JTBグループサイト
この引用が示すように、経済的要因は複合的に作用しています。
- 歴史的な円安: 以前は1ドル100円程度だった為替レートが、近年1ドル150円や160円といった水準で推移しています。これは、日本円の国際的な購買力が約3分の2に減少したことを意味します。例えば、海外で100ドル(約1.5万円)の商品やサービスを利用する場合、以前は約1万円だったものが、現在では1.5倍の1.5万円が必要になる計算です。
- 世界的な物価高: 円安だけでなく、世界的にインフレが進行しているため、海外における交通費、宿泊費、食費、レジャー費なども軒並み高騰しています。これにより、円安で割高になった費用にさらに追い打ちをかけ、海外旅行の総費用は以前の2倍、あるいはそれ以上に跳ね上がっているケースも少なくありません。
- 国内の物価高と実質賃金の停滞: 海外旅行費用が高騰する一方で、日本国内でも物価高が進行し、私たちの生活費を圧迫しています。しかし、その一方で実質賃金は長らく停滞しており、可処分所得が大きく増えているわけではありません。結果として、海外旅行のような「贅沢品」に充てることのできる家計の余剰資金は大幅に減少しています。
これらの要因が組み合わさることで、海外旅行はまさに「手の届かない贅沢品」と化しました。経済学的に見れば、これは日本の購買力平価(Purchasing Power Parity, PPP)ベースでの国際的な地位の低下を示唆しています。他国と比較した際の実質的な購買力が低下しているため、海外で享受できる商品やサービスの量が相対的に減少しているのです。かつてプラザ合意後の円高時代には、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称され、日本円の購買力は非常に高く、海外製品を安価に購入し、旅行を謳歌できました。しかし、現在の状況はまさにその逆であり、過去30年間の日本経済の低迷とデフレからの脱却の難しさが、海外旅行という形で如実に表れていると言えるでしょう。
3. インバウンドの光とアウトバウンドの影:観光収支の不均衡
日本人の海外旅行が低迷する一方で、日本には記録的な数の外国人観光客が押し寄せています。観光庁のデータによれば、2024年の訪日外国人旅行者数は、なんと3,687万人に達しています。
訪日外国人旅行者数. 令和6年(2024年)3,687万人(出典:日本政府観光局(JNTO)「訪日外客数」)
引用元: 訪日外国人旅行者数・出国日本人数 | 観光統計・白書 | 観光庁
この数字は、日本人の海外旅行者数(1301万人)の実に約2.8倍に及びます。この「インバウンド」と呼ばれる現象は、日本経済に大きな外貨をもたらし、観光収支を大幅な黒字へと転換させました。これは、観光立国を目指す日本にとって、短期的な経済的利益という点では成功と言えるでしょう。
しかし、このインバウンド活況の裏側で、日本人には別の、そして深刻な側面がもたらされています。提供情報の概要にも示されているように、「京都だけじゃない日本人観光客離れ 東京など35都道府県で宿泊者減少」という状況は、インバウンドの「光」がアウトバウンドの「影」を深くしている現実を示しています。
外国人観光客の増加に伴い、日本の人気観光地の宿泊施設や飲食店では価格が高騰し、予約も困難になっています。国際的な需要が増えることで、国内のサービス価格が吊り上がり、結果として日本人自身の国内旅行のハードルが高まっているのです。経済学的には、これは「機会費用(Opportunity Cost)」の増大として捉えられます。つまり、外国人観光客による需要が、日本人が国内旅行を楽しめる機会を奪っている、あるいはそのコストを引き上げているという見方です。
この状況が皮肉にも「海外旅行を選ぶ人も増えています」という声に繋がっているという指摘もあります。国内旅行が高額化するなら、いっそ海外へ、という心理は理解できますが、前述の物価高と円安がそれを阻んでいるのが現状です。結果として、日本人にとっては海外旅行も国内旅行も「高嶺の花」となり、全体的な旅行機会の減少、すなわち「旅行貧困」という状態を招いています。これは、観光立国政策が国内消費者にもたらす負の側面として、議論されるべき課題です。
4. 「若者の旅行離れ」神話の崩壊:20代出国率トップが示す真実
「最近の若い子は海外旅行に行かないよね」という声は、しばしば聞かれますが、実はこの一般的なイメージは、データによって一部が覆されています。
なんと、2024年の年代別の出国率(=その年代の人口に対して海外に行った人の割合)では、20代がトップだったという意外な事実が示されています。
出入国管理統計による2024年の海外旅行者数は、1301万人となっています(出国者数ベース。1万人未満四捨五入)。余談ですが、入国者数ベース(日本人の帰国者…
引用元: 若者の「海外旅行離れ」は本当か? 年代別の出国率は20代がトップ、人数と消費額の統計を読み解いた【コラム】
このデータは、「若者の海外旅行離れ」という一元的な見方が、必ずしも実態を正確に反映していないことを示唆しています。重要なのは、「人数」と「出国率」、そして「消費額」を区別して分析することです。
- 出国率の高さ: 20代の出国率が高いことは、彼らがグローバルな視点や異文化体験に対する強い関心を持っていることを示しています。これは、ソーシャルメディアを通じて世界の情報を得る機会が増え、海外への憧れや情報収集が容易になった現代の若者像を反映しているとも言えます。
- 「人数」と「消費額」の課題: しかし、人口の多い団塊世代やそれより上の世代が過去には絶対数として多くの海外旅行をしていました。また、出国率が高くても、旅行にかける「消費額」が全体的に低ければ、海外旅行市場全体の回復には繋がりにくいという現実があります。20代は限られた予算の中で、LCC(格安航空会社)を積極的に利用したり、宿泊費を抑えたバックパッカー旅を選んだり、あるいはワーキングホリデー制度を活用したりと、費用を抑制しながら海外に出る工夫をしていると推測されます。
このデータは、若者自身に海外への関心が低いわけではなく、むしろ高い関心を持っているにもかかわらず、経済的な制約(実質賃金の停滞、非正規雇用の増加、奨学金返済の負担など)によって、その願望が十分に満たされていない現状を映し出しています。彼らが「旅行貧困」という環境下で、いかにして国際移動の自由を追求しようとしているかを示す興味深い洞察と言えるでしょう。
結論:グローバル社会における日本の「豊かさ」の再定義と未来への提言
本稿では、2025年のデータから、日本人の海外旅行が「遠い夢」になりつつある現状、そしてその背景にある経済的な課題を深掘りしました。私たちは以下の点を再確認しました。
- コロナ禍前と比較し、日本人出国者数は約7割にとどまり、回復が著しく遅れているという厳然たる事実。
- この遅延の核心には、「国内外の物価高」と「歴史的な円安」という、日本人の購買力を著しく低下させる経済的逆風が存在すること。
- 訪日外国人によるインバウンドの活況が、観光収支の黒字化に貢献しつつも、日本人の国内旅行機会を奪う「旅行貧困」という負の側面をもたらしていること。
- 「若者の海外旅行離れ」という通説に反し、20代の出国率は決して低くなく、むしろ高い関心を示しているものの、経済的制約下での工夫を強いられているという実態。
これらのデータが突きつけるのは、私たちがかつて享受していた「気軽に海外に行ける豊かさ」が、単なる経済的指標の変動以上の、より深刻な「構造的な豊かさの喪失」に直面しているという現実です。これは、国際的な購買力の低下、異文化との直接的な接触機会の減少、そして長期的には日本の国際競争力や多様性への理解にも影響を及ぼしかねない、複合的な課題と言えます。
「旅行貧困」という現象は、単にレジャーの機会が減ったという話に留まりません。それは、グローバル化が加速する世界において、日本国民が国際的な視野を広げ、異文化を肌で感じる機会が奪われつつあることを意味します。このような機会の喪失は、将来のイノベーションの停滞、若者の国際感覚の希薄化、そして日本の国際社会におけるプレゼンスの低下に繋がる可能性を秘めています。
この状況をただ嘆くだけではなく、私たちはこの「失われた豊かさ」にどう向き合い、取り戻していくべきでしょうか。個人の消費行動の工夫はもちろん重要ですが、より根本的な解決には、実質賃金の上昇、生産性の向上、そして国際交流を促進する政策的支援が不可欠です。円安や物価高といった外部要因への対応だけでなく、日本の経済構造そのものを強化し、国民が再び「行きたい場所を選べる自由」を享受できるような社会を構築することが、未来への重要な提言となります。
あなた自身の旅行体験や、この現状に対するご意見もぜひ聞かせてください。私たち一人ひとりがこの構造的課題に関心を持ち、議論を深めることが、日本の未来、そして私たち自身の「豊かさ」を再定義する第一歩となるはずです。


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