サイトアイコン 時短テック

【速報】NHK炎上の深層心理。集合的アイデンティティの防衛機制とは

【速報】NHK炎上の深層心理。集合的アイデンティティの防衛機制とは


【専門家分析】NHK子ども番組「日本の侵略」はなぜ炎上したか?― “歴史ナラティブ”を巡る集合的アイデンティティの防衛機制

公開日: 2025年08月04日
執筆者: 専門家ライター(文化・歴史社会学)

序論:本稿が提示する結論

本稿の冒頭で、核心となる結論をまず提示したい。近年、SNSを主戦場として頻発するNHK子ども番組をめぐる炎上、特に「日本がアジアを侵略した」という表現への激しい反発は、単なる「歴史的事実」の是非を問う表層的な論争ではない。その深層には、自国の過去をどう物語るかという「歴史ナラティブ(歴史物語)」の構築をめぐる主導権争いが存在している。そして、その争いは次世代への教育という文脈において、私たちの「集合的アイデンティティ(Collective Identity)」の根幹を揺さぶるが故に、これほど強い情動的反応を引き起こすのである。

本稿では、この複雑なメカニズムを社会心理学、歴史学、そしてメディア論の視点から多角的に解剖し、単なる「炎上騒ぎ」の解説に留まらない、問題の本質的な理解を目指す。

第1章:なぜ「侵略」の一言がトリガーとなるのか?―集合的記憶とアイデンティティの防衛機制

今回の議論の火種となったのは、SNS上での一つの投稿であった。

NHKこども番組「日本が中国を侵略」
「米英が助けに来た」
子役たち「えぇ〜ひどい‼️🥲」
引用元: 『戦記』教育投資ジャーナリスト (@SenkiWork) / X

この投稿が示すのは、現代における歴史論争の主戦場が、アカデミズムの場からソーシャルメディアへと移行し、瞬時に拡散・増幅されるようになった現実である。特に注目すべきは「子役たち『えぇ〜ひどい‼️🥲』」という描写だ。これは、番組が歴史的事象を単なる情報としてではなく、明確な善悪の二元論に基づいた「情動的な物語」として提示したことを示唆している。

社会心理学の観点から見れば、この演出は極めて効果的だ。子どもという純真な存在が示す素朴な感情(「ひどい」)は、視聴者に対して強力な共感を促し、歴史を「被害者と加害者」という単純化されたフレームワークで理解するよう誘導する。

しかし、なぜこの「単純化」が一部の人々の強い反発を招くのか。ここで鍵となるのが「社会的アイデンティティ理論」「集合的記憶」の概念である。人々は自らが所属する集団(この場合は「日本人」という国民集団)に対して肯定的な評価を維持しようとする心理的傾向を持つ。歴史とは、その集団のアイデンティティを形成する「集合的記憶」の中核であり、自国の過去の物語は、自己評価に直結する。「日本の侵略」というネガティブなナラティブは、この肯定的な自己(集団)イメージに対する脅威として認識され、無意識的な防衛機制が働く。つまり、「話はそんなに単純ではない」という反発は、単なる歴史解釈の相違を超え、自らのアイデンティティを守ろうとする根源的な心理反応なのである。

第2章:「大東亜共栄圏」の再解釈―歴史ナラティブの多層性と「侵略」の定義

反発する人々が、その「単純ではない」論の根拠としてしばしば挙げるのが、当時の日本が掲げた「大東亜共栄圏」構想である。この点について、NHK自身のウェブサイトは次のように解説している。

大東亜とは、東アジアから東南アジアにかけての一帯を指します。東條英機総理大臣は、この地域は資源が豊富であるのに、アメリカやイギリスなどによって搾り取られ、文化の発展も妨げられていると主張しました。そして、欧米の勢力を追い出して、日本をリーダーとする新たな秩序を築き、ともに栄えていくべきだと訴えたのです。
引用元: 日本が掲げた「大東亜共栄圏」とは|NHK戦争を伝える…

この引用は、「侵略」という言葉だけではこぼれ落ちてしまう歴史の側面、すなわち「欧米植民地主義からのアジアの解放」という「大義名分」が存在したことを示している。この「建前」と、結果としてアジア諸国に甚大な被害をもたらした軍事行動という「現実」の乖離こそが、歴史解釈を困難にする根源である。

しかし、専門的な議論は「建前か本音か」という単純な二項対立に留まらない。歴史学的には、日本の行動は「侵略」と「解放」という二重性を、当時の複雑な国際情勢(西洋帝国主義という巨大な構造)の中で併せ持っていたと分析される。これを無視し、いずれか一方の側面のみを強調することは、歴史の全体像を見誤らせる。

ここで重要なのは、「歴史修正主義(Historical Revisionism)」「歴史否定論(Historical Negationism)」を明確に区別することだ。前者は、新たな史料や視点に基づき既存の歴史像を学術的に見直す正当な営みである。一方、後者は、特定のイデオロギーに基づき、ホロコースト否認のように明白な史実そのものを否定する非学術的な行為を指す。「大東亜共栄圏」の理念的側面や当時の国際情勢を考慮に入れることは、必ずしも歴史否定論にはつながらず、むしろ歴史の多層性を理解しようとする試みとも言える。子ども向け番組が「侵略」という一語でこの複雑性を覆い隠すとき、それは知的な探求の機会を奪い、特定のナラティブを一方的に刷り込む行為だと見なされ、強い反発を呼ぶのである。

第3章:歴史の評価軸は一つではない―「現在主義」の罠と国際比較からの洞察

自国の負の歴史といかに向き合うか、という課題は日本固有のものではない。むしろ、それは国民国家が抱える普遍的なジレンマである。例えば、ドイツのアンゲラ・メルケル前首相の評価をめぐる議論はこの点を示唆している。

「ロシア政策をめぐり自己批判すべきだ」
こう批判されているのは、ドイツのメルケル前首相です。
引用元: 「メルケルとロシア」広がる波紋 ドイツで何が? | NHK

在任中は高く評価された対ロシア融和政策が、2022年のウクライナ侵攻という新たな現実を前に、一転して厳しい批判に晒されている。これは「現在主義(Presentism)」、すなわち現代の価値観や状況を絶対的な基準として過去を安易に断罪することの危うさを示す好例だ。歴史的行為や政策は、その時代の文脈の中で評価されるべきであり、後世の視点からのみ裁断することは、歴史理解を歪める危険性を孕む。日本の過去を評価する際にも、この「現在主義」の罠には常に自覚的であるべきだろう。

また、国家と国民を同一視することの短絡さも、ロシアの事例が教えてくれる。

厳しい言論統制が行われているロシア。そうした状況の中でも、反戦や政権批判の声をSNSで投稿し続けるロシアの人たちがいます。
引用元: 「ウクライナ侵攻はロシアの恥」ロシア人たちの反戦の声 | NHK

この事実は、「国家が推進する公式の歴史(Official History)」と、「国民一人ひとりが持つ多様な記憶や意見(Popular Memory)」との間に存在する乖離を浮き彫りにする。過去の日本の戦争についても同様であり、当時の国民全てが軍国主義を熱狂的に支持していたわけではない。過去の国家の行為を批判的に検証することが、即座に「反日」や「自虐」を意味するのではなく、むしろ国家と個人を切り離し、より多声的な歴史像を構築するための健全なプロセスであるという視点が不可欠だ。

第4章:公共放送のディレンマ―教育的単純化と歴史的公正性の狭間で

今回の炎上が「またNHKか」という反応を呼んだ背景には、公共放送であるNHKが歴史・教育問題において繰り返し論争の的となってきた経緯がある。2009年の『NHKスペシャル JAPANデビュー』における台湾統治の描写が「偏向報道」として大規模な訴訟に発展した事件は、その象徴である。(参考: NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」 – Wikipedia)

これは、公共放送が抱える根源的なディレンマを露呈している。特に子ども向け番組においては、「教育的配慮」として複雑な事象を分かりやすく単純化する必要性と、歴史の多層性や多角的な視点を担保する「歴史的公正性」の維持という、時に相反する要請に板挟みとなる。

「日本がアジアを侵略した」という表現は、前者の要請に応えようとした結果であろう。しかし、その単純化が第2章で述べたような歴史の複雑性を削ぎ落とし、特定のナラティブのみを絶対的な「事実」として提示するとき、後者の要請を損なうことになる。このディレンマは、NHKが公共の電波を用いて次世代の「集合的記憶」の形成に深く関与する存在であるからこそ、極めて先鋭化し、社会的な監視と批判の対象となるのである。

結論:対立から「対話的記憶(Dialogic Memory)」の醸成へ

NHK子ども番組をめぐる炎上は、「事実」と「感情」、「侵略」と「解放」といった単純な二項対立では決して捉えきれない、我が国の歴史認識をめぐる根深い課題を映し出している。

興味深いことに、両者は異なるアプローチを取りながらも、自らが正しいと信じる「日本の歴史」を次世代に伝えたいという点では共通しているのかもしれない。

この膠着した対立を超えるために必要なのは、単なる「対話しましょう」という呼びかけではない。筆者が提唱したいのは、ドイツの文化学者アライダ・アスマンらが提示する「対話的記憶(Dialogic Memory)」という概念を社会全体で醸成することである。

これは、異なる、時には対立し合う歴史のナラティブ(例えば、「侵略の記憶」と「解放の記憶」)をどちらか一方に統一・解消するのではなく、両者を社会的な記憶の空間に共存させ、互いに対話し、問いかけあう関係性を築くことを目指すアプローチだ。自らのナラティブを絶対化せず、他者のナラティブの存在を認め、その背景にある痛みや論理に耳を傾ける。このプロセスを通じてこそ、私たちの「集合的記憶」はより多層的で、より強靭なものへと成熟していく。

終戦から80年という節目を前に、私たちは歴史をめぐる不毛な「陣地戦」から脱却し、多様な記憶が対話し、響き合う、より成熟した歴史文化を創造するという課題に、真摯に向き合うべき時を迎えている。その第一歩は、なぜ相手はそう考えるのか、そのナラティブの背後にあるアイデンティティや経験に想像力を巡らせることから始まるのである。

モバイルバージョンを終了