最近、SNS上で政治家の歴史認識に関する発言が大きな波紋を呼んでいます。特に、立憲民主党の有田芳生衆院議員が、参政党の新人議員のX(旧Twitter)投稿に対し、「”南京事件は捏造”X投稿は歴史改ざんレベル以前ただの恥ずべき広大な無知からっぽ」と痛烈に批判したことは、単なる政治的見解の相違を超え、日本政府の公式見解、国際的な学術コンセンサス、そして公職者の歴史認識が負うべき責任という三層の深刻な問題を私たちに突きつけています。
本稿の結論として、有田氏の批判は、単に「歴史修正主義」の範疇に留まらない、歴史に関する基礎的知識の根本的な欠如と、その背景にある情報リテラシーの脆弱性を浮き彫りにしています。これは、公職者としての責任を問うと同時に、現代社会における真偽を見極める能力の重要性を改めて強調するものです。本記事では、この問題の深層を、提供された情報を基に専門的な視点から詳細に分析し、私たちの社会が歴史とどのように向き合うべきかを考察します。
1. 事の発端:参政党・初鹿野議員の「南京事件捏造」示唆とその専門的吟味
今回の議論の発端となったのは、2025年7月20日投開票の参院選で初当選した参政党の新人、初鹿野裕樹氏のX投稿でした。初鹿野氏は、元航空幕僚長の田母神俊雄氏のX投稿を引用する形で、日本政府が南京事件に関する質問主意書に対し、「日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為があったことは否定できないと考えている」と閣議決定した答弁書を出したことについて、以下のように批判しました。
「日本保守党の河村たかし共同代表が日本軍について『虐殺事件を引き起こした』と指摘する朝日新聞の記事を引用した質問主意書を提出し、政府は17日、日中戦争時の1937年に旧日本軍の南京占領で起きたとされる『南京事件』を巡って、『日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為があったことは否定できないと考えている』とする答弁書を閣議決定したとか。このような我が国を貶める答弁書を決定する日本政府、もうそろそろ終わりにしてもらいたい」
引用元: 有田芳生氏が初鹿野裕樹議員の南京事件否定発言に痛烈批判「広大な無知、ただの恥」|有田芳生の活動・発言・ニュース(報道)|政治家情報サイト「先生の通信簿」
初鹿野氏がこの答弁書を「我が国を貶める」と表現したことは、南京事件そのもの、あるいは旧日本軍の行為に関する日本政府の公式見解を、国家の名誉を損なうものと捉えていることを示唆しています。これは、歴史学における「事実認定」のプロセス、そして国家が過去と向き合う際の「歴史認識」という概念への根本的な誤解を示唆していると言えます。
日本政府の公式見解は、東京裁判(極東国際軍事裁判)以降、様々な史料検証と国内外の議論を経て形成されてきました。特に、1995年の村山談話や、その後の政府答弁においては、「非戦闘員の殺害又は略奪行為があったことは否定できない」という文言が繰り返し用いられ、これは、国際社会との歴史認識に関する対話を維持し、和解を進める上で不可欠な、政府としての事実認定を示すものです。これを「我が国を貶める」と断じることは、単に歴史的事実の評価だけでなく、戦後の日本が国際社会と築いてきた信頼関係や、歴史的な責任という外交的・倫理的な側面への理解が欠如している可能性を指摘できます。
また、初鹿野氏がこの発言で「南京事件は捏造」という認識を示唆していると解釈される点も重要です。歴史学における「捏造(fabrication)」とは、意図的に虚偽の情報を創作し、それを事実であるかのように提示する行為を指します。南京事件に関しては、多数の一次資料(例:当時南京にいた欧米人による日記や報告書、例えばジョン・ラーベやミニー・ヴォートリンの日記、日本軍関係者の証言や記録、中国側の証言や公文書など)が存在し、これらは相互に検証され、学術的な厳密な史料批判を経て、事件の存在自体は国際的に広く認められています。議論が残るのは犠牲者数などの具体的な規模についてであり、事件そのものの存在を「捏造」と主張することは、これらの広範な一次資料と、それに基づく歴史学の蓄積を完全に否定することに等しく、学術的根拠に乏しい主張と言わざるを得ません。
2. 有田芳生氏の痛烈な批判:「歴史改ざんレベル以前の無知」の深層
この初鹿野氏の投稿に対し、有田芳生衆院議員は自身のXで、次のように厳しく批判しました。
「歴史の修正とか改ざんのレベルではありません。それ以前。ただの恥ずべき広大な無知。からっぽ。これが国会議員。これが日本。協同して抗うしかありません。」
引用元: 有田芳生氏、参政党議員の南京大虐殺「捏造」投稿に「歴史の修正とか改ざんのレベルではない」(日刊スポーツ)
有田氏の批判がなぜこれほど強烈だったのか、その言葉の専門的意味合いを深掘りします。
まず、「歴史の修正とか改ざんのレベルではありません。それ以前」という指摘は極めて重要です。「歴史修正主義(Historical Revisionism)」とは、既存の歴史解釈に対し、新たな史料の発見や解釈を通じて再評価を試みる学術的アプローチを指すことがあります。しかし、政治的文脈では、しばしば特定の政治的意図をもって、歴史的事実を歪曲したり、否定したりする行為を指す否定的な意味合いで使われます。有田氏の指摘は、初鹿野氏の発言が、たとえ後者の意味での「歴史修正主義」にすら到達していない、という点で衝撃的です。
これは、基礎的な歴史的事実、特に日本政府が公式に認めている事実ですら認識していない状態を指していると解釈できます。学術的な歴史研究は、まず確立された事実(ファクト)を認識し、その上で解釈(インタープリテーション)を深めるものです。有田氏の言う「それ以前」とは、この事実認識の段階で既に問題があり、学術的な議論の土俵にすら上がっていない、という厳しい評価を内包しています。
次に、「ただの恥ずべき広大な無知。からっぽ。」という表現は、公職者が歴史的事実に関する「無知」であることが、なぜ「恥ずべき」なのかを問いかけます。国会議員という立場は、国の内外に対し、その国の歴史認識を代表する役割を担っています。このような公的な立場にある者が、政府の公式見解や国際的な共通認識と乖離する発言を、根拠なく行うことは、国際社会における日本の信頼性を損ない、外交関係に悪影響を及ぼす可能性があります。また、国内においては、国民の歴史認識を混乱させ、誤った情報を拡散させるリスクを孕んでいます。この「無知」は単なる知識の欠如に留まらず、公職者としての責任感と、事実に基づいた情報発信に対する倫理観の欠如をも示唆しているのです。
「からっぽ」という言葉は、単に情報が少ないだけでなく、歴史を多角的に考察し、批判的に思考する能力、あるいは事実を事実として受け入れる柔軟性の欠如をも示唆していると読み取れます。これは、情報過多の現代において、確証バイアスやエコーチェンバー現象に陥りやすい状態であるとも言え、特定のイデオロギーに基づいた情報のみを偏重し、客観的な事実や異なる視点を排除してしまう危険性を表しています。
そして、「これが国会議員。これが日本。協同して抗うしかありません。」という言葉は、この問題が単なる個人の発言に留まらず、日本の政治、ひいては社会全体の歴史認識に対する課題であることを強調しています。これは、市民社会全体が、歴史的正確性を守り、健全な言論空間を維持するために、共同で努力する必要があるという、切実なメッセージと受け取れます。
3. 「南京事件」の歴史的・学術的コンセンサスと日本の公式見解
「南京事件」とは、日中戦争中の1937年12月、日本軍が中華民国の首都南京を占領した際に発生したとされる事件です。この事件では、日本軍によって多数の中国の捕虜や民間人が殺害されたとされています。
この事件に関して、犠牲者の数については日中間に見解の相違があり、その全容を巡る議論は現在も続いていますが、事件そのものの存在、そして旧日本軍による非戦闘員の殺害や略奪行為があったこと自体は、日本政府の公式な見解として否定されていません。 この点は、以下の重要な歴史的経緯と結びついています。
- 東京裁判(極東国際軍事裁判): 南京事件は、東京裁判において主要な訴因の一つとなり、多くの証言や証拠が提示されました。
- 村山談話(1995年): 当時の村山富市首相が発表した「戦後50周年を記念する談話」の中で、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ、日本の過去の行為に対する反省と謝罪を表明しました。この談話は、戦後日本の歴史認識の重要な基盤となっています。
- 政府の閣議決定答弁書: 今回の初鹿野氏のX投稿の背景にもあったように、「日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為があったことは否定できないと考えている」という見解は、歴代の日本政府によって繰り返し閣議決定されており、現在の日本政府の公式な立場として確立されています。
国際社会においても、南京事件は20世紀の日本の侵略戦争における重要な歴史的事実として広く認識されています。国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界記憶遺産には、中国が申請した南京事件関連資料が登録されており、これも国際的な認識の表れと言えます。歴史学の分野では、多数の歴史学者や研究機関が、多様な史料に基づき、この事件の存在とその概略を肯定しており、その研究は現在も継続されています。
したがって、「南京事件は捏造」という主張は、日本政府の公式見解とも、国際社会の共通認識とも、また学術的な歴史研究の成果とも乖離していると言わざるを得ません。これは単なる見解の相違ではなく、客観的な事実認識の欠如という点で本質的な問題を含んでいるのです。
4. 政治家の歴史認識が持つ多層的な影響:「記憶の政治学」と情報リテラシーの課題
国会議員という公職にある者が、歴史的事実について発言することの責任は非常に重く、その発言は、国内外の多くの人々に影響を与え、時には国際関係にも波紋を広げることがあります。この現象は、「記憶の政治学(Politics of Memory)」という学術分野で分析される主題です。
「記憶の政治学」とは、国家、社会、そして個人が過去の出来事をどのように「記憶」し、それが現在の政治、社会、文化にどのような影響を与えるかを研究する分野です。政治家による歴史に関する発言は、単なる事実の提示に留まらず、国民のアイデンティティ形成、ナショナリズムの醸成、あるいは外交戦略の一環として機能し得ます。例えば、特定の歴史認識を強調することで、国内の支持層を固めたり、対外関係における特定の立場を主張したりする狙いがある場合もあります。しかし、事実に基づかない、あるいは偏った歴史認識の発言は、国際社会からの信頼を失い、歴史問題の蒸し返しを招き、外交的な軋轢を生む原因となります。
特に現代は、SNSの普及により情報が瞬時に拡散される「情報化社会」であり、公職者の発言が持つ影響力は計り知れません。このような時代において、私たちは、高度な情報リテラシーを身につけることが不可欠です。
- 信頼できる情報源の特定: 膨大な情報の中から、客観的な事実に基づき、専門家によって検証された信頼性の高い情報源(例:学術論文、公的機関の報告書、定評のある歴史書)を見分ける能力。
- 批判的思考: 提示された情報を鵜呑みにせず、その情報が誰によって、どのような意図で発信されているのか、偏りはないか、複数の視点から検証する能力。
- 確証バイアスとエコーチェンバーの回避: 自分の信念や既存の意見を補強する情報ばかりに触れ、異なる意見や事実から目を背ける傾向(確証バイアス)や、自分と似た意見を持つ者同士で情報を交換し、意見がさらに強化される現象(エコーチェンバー)に陥らないよう意識的な努力をすること。
政治家による誤った歴史認識の発言は、これらの課題を浮き彫りにします。彼らの発言は、時に意図せず、あるいは意図的に、不正確な情報を拡散させ、人々の確証バイアスを強化し、歴史に関する健全な議論を阻害する可能性があります。このような状況に対抗するためには、私たち国民一人ひとりが、歴史の複雑性を受け入れ、多角的な視点から情報を収集し、事実に基づいた情報を冷静に判断する能力を高めることが求められます。
結論:歴史と真摯に向き合い、情報時代の羅針盤を磨く
今回の有田氏の強い批判は、単なる政治家間の論争にとどまらず、現代社会における歴史認識と情報リテラシーの重要性を改めて問いかけるものです。初鹿野氏の発言が「歴史修正主義」にすら到達しない「基礎的知識の欠如」であったと指摘されたことは、公職者が負うべき歴史認識の重さと、その発言が引き起こしうる深刻な影響を浮き彫りにしました。
歴史は、単なる過去の出来事の羅列ではありません。それは、私たちが現在の社会を理解し、より良い未来を築くための、極めて重要な羅針盤です。過去から目を背けたり、都合の良いように事実を歪曲したりすることは、私たち自身の足元を危うくし、国際社会における信頼を損なうだけでなく、未来の世代に対する無責任な行為に他なりません。
歴史には、複雑で時に目を背けたくなるような事実も含まれています。しかし、それらと真摯に向き合い、その背景にある因果関係やメカニズムを深く理解し、そこから教訓を導き出すことで、私たちは過ちを繰り返し、争いを深めるのではなく、より平和で調和のとれた未来を築くための知恵と洞察を得ることができます。
政治家だけでなく、私たち国民一人ひとりが、歴史を主体的に学び、事実に基づいた情報を冷静に判断し、批判的思考力と情報リテラシーを高める姿勢を持ち続けることが、健全な民主主義社会を維持し、国際社会の一員としての責任を果たす上で不可欠です。歴史を知ることは、単なる知識の習得ではなく、未来を深く、そして賢く考えるための、揺るぎない基盤なのです。ぜひこの機会に、ご自身で南京事件に関する政府の公式見解や、信頼できる歴史資料に目を通してみてください。真の理解は、そこから始まるはずです。
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