本日:2025年10月10日
「リベラル」という言葉を聞いて、あなたは何を想像しますか? 自由、平等、多様性といった、私たちの社会を豊かにするはずの価値観。しかし、近年、このリベラリズムに対し「もう時代遅れだ」「現実離れしている」といった批判の声が高まり、その終焉を論じる言説すら散見されます。特に移民問題に見られるように、リベラルな理想が「上級国民」には利益をもたらす一方で、「庶民」には雇用や治安の面でのしわ寄せとなり、社会の分断を深めているとの指摘は、多くの人々の心に疑問を投げかけています。
この大きな問い──「リベラルはなぜ終わったのか?」──は、実は私たちの社会そのものが抱える根深い課題を映し出しています。
結論から申し上げましょう。リベラリズムは「終わった」のではありません。むしろ、その本質的な価値観を再定義し、現代社会の複雑な課題に適応するための、深刻な「変革期」に直面しているのです。これは単なる危機ではなく、より包括的で持続可能な社会を築くための、新たな機会と捉えるべきでしょう。
本稿では、プロの研究者兼専門家ライターとして、最新の動向や専門家の見解を紐解きながら、リベラリズムが今、どのような転換期を迎えているのかを、あなたと一緒に徹底的に深掘りしていきます。この記事を読めば、あなたが漠然と感じていたモヤモヤがきっと晴れるはずです。さあ、一緒にこの複雑で面白いテーマに飛び込んでいきましょう!
2025年、リベラリズムが直面する5つの現実と、その深層
1. リベラリズムは「多義的」だった? その定義の複雑さが生む混乱
まず、「リベラリズム」という言葉の多義性が、現代の混乱の出発点となっています。これは、単に解釈が分かれるというレベルを超え、その思想的基盤自体が多元的であることに起因します。
リベラリズムは体系化された思想であるというよりも、ダンカン・ベルが指摘するように「多義的なもの」として捉えるべきでしょう。
引用元: リベラルな国際秩序のリベラルな特徴―理解への補助線とリベラル …
ダンカン・ベルが指摘するように、リベラリズムは単一の体系化された思想ではなく、時代や文脈、論者によって「自由」「平等」「人権」「市場の自由」「個人の尊重」など、様々な概念を内包してきました。例えば、17世紀のジョン・ロックに代表される古典的リベラリズムは、個人の生命、自由、財産という「自然権」の保護と、政府の権力制限を重視しました。一方、20世紀のジョン・ロールズの『正義論』に見られる現代リベラリズムは、単なる形式的自由だけでなく、社会経済的平等の確保、特に機会の平等と最底辺の人々への配慮を重視します。
この歴史的、哲学的な多義性は、かつてはリベラリズムが多様な社会課題に対応できる柔軟性を示していました。しかし現代においては、これが「結局、リベラルは何をしたいのか?」という根本的な疑問を生み、イデオロギーとしての統一性を損なう原因となっています。経済的自由を極大化する「新自由主義」と、社会福祉や平等を追求する「社会自由主義」が、同じ「リベラル」の傘の下に語られることで、言葉そのものが持つ意味が曖昧になり、一般の人々にとって理解しづらい、あるいは自己矛盾を抱えるものとして映るのです。この混乱が、リベラリズムに対する不信感を醸成する一因となっています。
2. 社会の「分断」がリベラルの足かせに? 民主主義の後退とデニーンの警鐘
現代社会を覆う「分断」は、リベラリズムの根幹を揺るがす深刻な問題です。この分断が、リベラルが基盤とする代表制民主主義の機能不全を招いているとの指摘は、多くの識者が共有するところです。
ドラッカーの『経済人の終わり』も、フクヤマの『リベラリズムへの不満』等の著作やデニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』も、そのことを指摘する。社会に分断が生じたとき、現在の代表制民主主義はその構造から自分では分断を修復できない。
引用元: 世界の民主主義の後退の原因に関する一考察 -主としてドラッカー …
この引用は、20世紀初頭から現代に至るまで、リベラリズムが抱える潜在的な自己破壊性を示唆しています。ピーター・ドラッカーは、大衆が経済的合理性を超えた「感情」や「帰属意識」を求める時代において、リベラリズムが経済的個人主義に傾倒しすぎたことの危険性を予見しました。フランシス・フクヤマは、リベラリズムが「アイデンティティ」や「尊厳」といった非経済的要素を軽視した結果、ポピュリズムや権威主義の台頭を招いたと分析します。
そして、アメリカの政治学者パトリック・デニーンは、その著書『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(彼の著作は2025年3月31日更新のレポートでも言及されています)において、リベラリズムが個人主義を極限まで推し進め、自己の選択と自由を至上とした結果、社会を繋ぎとめる共通の道徳的基盤や共同体性が失われたと警鐘を鳴らしました。彼は、リベラルな社会が「自由」を過度に追求した結果、人々が本来共有すべき「共通の生」の感覚を喪失し、それが分断と相互不信を生んでいると主張します。
この指摘は、冒頭で触れた移民問題に具体的な形となって現れます。リベラリズムは多様性を尊重し、国境を越えた人の移動の自由を是としますが、受け入れ側の既存コミュニティに属する人々が抱く経済的な不安(低賃金労働との競合)や文化的な摩擦(生活習慣、価値観の違い)といった「負の側面」が、リベラルな政策によって十分に調整・緩和されない場合、社会の分断は深まります。リベラルな理想が、かえって庶民の生活基盤を脅かす結果となれば、その支持基盤は必然的に揺らぎ、「リベラリズムが誰のためのものか」という疑念を生むのです。代表制民主主義は、多様な利害を調整するメカニズムであるはずが、分断された社会では異なる利益集団の対立を深めるばかりで、共通の合意形成が困難になるという悪循環に陥っています。
3. ネオリベラリズムの功罪:市場原理主義が招いた「調整の失敗」と格差拡大
リベラリズムが現代に直面する困難を語る上で、その一翼を担った「ネオリベラリズム」(新自由主義)の影響は避けて通れません。
そしてそのトレンドは「ネオリベラリズム」と呼ばれる潮流と共振してると言えるのか。
引用元: 仁平 典宏 (Norihiro Nihei) – マイポータル – researchmap
ネオリベラリズムは、1970年代から80年代にかけて、アダム・スミスの古典的自由主義を再解釈し、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンらの思想を背景に台頭しました。政府の市場介入を最小限に抑え、民営化、規制緩和、自由貿易を推進することで、市場の効率性と競争力を最大限に引き出すことを目指したこの潮流は、グローバル経済の活性化や技術革新に大きく貢献したことは事実です。
しかし、その一方で、ネオリベラルな政策は深刻な負の側面ももたらしました。経済産業研究所(RIETI)のコラムが指摘する「調整の失敗」は、まさにこの点を突いています。
経済政策の「調整の失敗」
引用元: 市場経済の論理と政治と経済の論理 – RIETI
「調整の失敗」とは、市場に全てを委ねた結果、本来市場の失敗を是正すべき政府の役割が形骸化し、富の偏在、格差の拡大、そして金融危機の頻発といった問題が深刻化した状況を指します。ネオリベラリズムは、「見えざる手」による市場の自己調整能力を過信し、社会保障の削減、労働市場の柔軟化(非正規雇用の増大)、そして公共サービスの民営化などを推し進めました。これにより、競争に敗れた人々はセーフティネットを失い、社会的な不平不満が蓄積される結果となりました。
リベラリズムが本来掲げるべき「公正な機会」や「社会的平等」は、ネオリベラルな政策によってむしろ損なわれ、市場競争の勝者と敗者の間の断絶を深めました。この格差は、社会の分断を加速させ、リベラリズムに対する庶民の信頼を失わせる大きな要因となったのです。
4. 「共通善」の台頭? ポスト・リベラルの議論の行方
リベラリズムの限界が露呈する中で、新たな思想的潮流として「共通善」(コモン・グッド)への注目が高まっています。これは、単なる流行ではなく、現代社会が直面する根深い問題への応答として、その意義が見直されています。
リベラリズムは終わり「共通善」が台頭した ▽会田弘継
引用元: 中央公論 2025年11月号|最新号|中央公論.jp
中央公論2025年11月号で会田弘継氏がこのテーマを提起するように、「共通善」とは、個人の自由や権利の最大化だけでなく、社会全体にとっての幸福や利益を追求しようという思想です。これは、古代ギリシャのアリストテレスが「ポリスにおける善き生」として論じた概念に源流を持ち、共同体主義(コミュニタリアニズム)の議論を通じて現代に再評価されています。
リベラリズムが「個人」を社会の中心に据え、個人の選択の自由を重んじるのに対し、共通善は「コミュニティ」や「社会全体」に目を向け、相互依存的な関係性の中で個人の幸福を捉えようとします。分断が進む現代社会において、気候変動やパンデミックといったグローバルな課題、あるいは国内の貧困や格差といった問題は、個人の努力だけでは解決できません。これらは、社会全体が協調し、共通の目的意識を持って取り組むべき「共通善」の問題として捉え直すことで、新たな解決の道筋が見えてくる可能性があります。
具体的には、環境保護のための国際的な協調、公衆衛生の確保、あるいは社会全体のレジリエンス(回復力)を高めるための政策(例えば、ユニバーサル・ベーシック・サービスやグリーン・ニューディールなど)は、共通善の思想と共鳴します。リベラリズムがポピュリズム(大衆迎合主義)と対峙する中で、この「共通善」の思想が、分断された社会に共通の目的意識を再構築し、対話と協調を促すための新たな規範となり得るのか、今後の議論が注目されます。ただし、共通善の追求が、個人の自由をどこまで制限するのか、またその「共通善」を誰がどのように定義するのか、といった新たな課題も同時に生じるため、バランスの取れた議論が不可欠です。
5. 2024年米大統領選に見るリベラリズムの苦境
リベラリズムの現実的な課題は、2024年の米国大統領選の結果にも色濃く反映されました。具体的な選挙結果の詳細は今後の詳細な分析を待つ必要がありますが、この選挙はリベラリズムが直面する困難を浮き彫りにする象徴的な出来事となりました。
民主党とリベラリズム―2024年米大統領選の敗因は何か
引用元: 民主党とリベラリズム―2024年米大統領選の敗因は何か | SPF …
この問いかけが示すように、民主党が掲げるリベラルな政策や言動が、必ずしも幅広い有権者、特に従来の労働者層や地方の住民に支持されるとは限らない現実が鮮明になりました。リベラルな政策アジェンダ、例えば気候変動対策、移民政策、LGBTQ+の権利推進、社会正義に関する主張などは、多くの人権派や進歩主義者にとっては極めて重要です。しかし、一部の有権者、特に経済的な不安を抱える層や、伝統的な価値観を重んじる層にとっては、これらの政策が「現実離れしている」「過剰である」「自分たちの生活とは無関係、あるいは有害である」と受け止められる側面がありました。
特に、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」(PC)や、それに伴う「キャンセル・カルチャー」に対する反発は、リベラリズムが「多様性」の名の下に一部の価値観を排他的に押し付けている、あるいは言論の自由を抑圧しているという認識を生み出し、保守層だけでなく、中道層の一部からも支持を失う原因となりました。リベラリズムが「エリート主義的」であるという批判も、この背景から生まれています。
この選挙は、リベラリズムが、いかにして多様な民意を包括し、社会全体の合意形成を図っていくかという、普遍的な民主主義国家が直面する喫緊の課題を浮き彫りにしました。特定のイデオロギーに傾倒しすぎず、国民全体の福祉と安定を追求するための、より実践的で包括的な政治アプローチが求められていることを示唆しています。
結論:リベラリズムは「終わった」のではなく、「再構築」と「進化」の途上にある
今日の徹底討論を通じて、「リベラルはなぜ終わったのか?」という問いに対し、私たちは多角的な側面からその複雑な背景を見てきました。
最終的な結論として、リベラリズムは「完全に終わった」わけではありません。むしろ、人類社会が直面する新たな挑戦に対し、その本質的な価値と実践のあり方を再考し、より包括的で持続可能なモデルへと「再構築」と「進化」を迫られている、と考えるのが最も適切です。
これまでの議論で明らかになったのは、以下の主要な課題です。
- 多義的な概念ゆえの混乱: その多様性が、現代においてイデオロギーとしての統一性を損ね、一般の理解を妨げている。
- 社会の分断と民主主義の機能不全: 個人主義の過度な追求が共同体性を弱め、代表制民主主義が分断を修復できない状況に陥っている。
- 新自由主義的な側面が招いた格差拡大: 市場原理主義への傾倒が富の偏在と信頼の喪失を引き起こし、リベラリズム本来の平等と公正を損なった。
- 「共通善」といった新たな価値観の台頭: 個人の自由と社会全体の幸福・利益のバランスを問い直す動きが活発化している。
- そして、現実の政治(2024年米大統領選など)が突きつける課題: リベラルな政策や言動が、必ずしも幅広い有権者に受け入れられるとは限らない現実。
これらの課題は全て、リベラリズムが「個人」の自由と権利の追求に重点を置く中で、「私たち」という共同体のあり方、そしてその共同体が直面する「共通の課題」に対する応答が不足していたことを示唆しています。現代社会は、気候変動、パンデミック、AIの倫理、地政学的リスクといった、国境を越え、個人の力を超える問題に直面しており、これには個人主義的アプローチだけでは対応できません。
この「終わりの始まり」は、単なる悲観論ではありません。むしろ、私たちがより良い社会を築くための、建設的な議論と変革を始める絶好の機会でもあるのです。リベラリズムの基本的な価値観である「自由」や「平等」は、依然として人類社会にとって不可欠です。しかし、それが現代の分断や格差を解消し、より多くの人々の幸福に繋がるにはどうすればいいのか、という問いに真剣に向き合う必要があります。
未来のリベラリズムは、個人の尊重を前提としつつも、共同体の重要性を再認識し、市場の効率性と社会の公正性を両立させ、分断を超えた対話と共通の基盤を再構築する道を模索することになるでしょう。それは、個人の自由を護りながら、社会全体としての「善き生」を追求する、より成熟したリベラリズムへと進化する可能性を秘めているのです。
今日得た知識を胸に、ぜひあなたも身の回りの社会問題について、一歩深く考えてみてください。この議論は、私たちの未来を形作る上で不可欠な、終わりなき探求の始まりなのです。
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