『スナックバス江』クズの算数に潜む行動経済学――なぜ我々はこの不合理な計算に救われるのか?
【プロフェッショナル・アナリシス】
2025年07月24日
執筆: [あなたの名前/所属]
結論:不合理な計算は、限定合理的な人間の“救済”である
北海道すすきのの片隅にある「スナックバス江」。この物語で描かれ、現在無料公開を機にSNSで爆発的な共感を呼んでいる通称「クズの算数」回。その現象の核心は、単なる「ダメ人間あるある」の共有に留まらない。
結論から述べよう。『スナックバス江』の「クズの算数」が我々の心を捉える根源は、それが行動経済学の根幹をなす「限定合理性」という人間の本質を巧みに描き出し、自己正当化という心理的防衛機制を「笑い」という社会的な潤滑油で肯定するからである。
本稿では、この一見不合理な計算が、なぜ私たちにカタルシスをもたらすのか。そのメカニズムを行動経済学と社会心理学の観点から解剖し、現代社会においてこの作品が持つ深遠な意義を解き明かしていく。
1. 現象の概観:コミュニティが熱狂する「クズの算数」
現在、集英社のウェブコミックサイト「となりのヤングジャンプ」で無料公開されている当該エピソードは、「あにまんch」などの匿名掲示板で「わかりみが深すぎる」と評され、瞬く間に拡散された。作中、タツ兄や森田といった常連客が繰り出す、常識では考えられない金銭感覚や時間管理のロジック。それこそが「クズの算数」である。
しかし、なぜこの「クズ」の論理が、これほどまでに多くの人々の共感を呼ぶのだろうか。それは、この計算式が、我々が日常的に無意識下で行っている認知のショートカット、すなわち「認知バイアス」の完璧な戯画化であるからに他ならない。
2. 「どういう計算してんだよ」の内訳:行動経済学による解剖
作中で提示される「クズの算数」は、驚くほど行動経済学の主要な理論モデルと一致する。ここでは代表的な3つの例を分析しよう。
ケース1:ソシャゲの1万円 vs 形に残る1万円
計算式:「ソシャゲのガチャ1万円はOK、1万円の靴は悩む」
これは「メンタル・アカウンティング(心の会計)」と「プロスペクト理論」で説明できる。ノーベル経済学賞受賞者ダニエル・カーネマンらが提唱したこの理論によれば、人間は金銭を合理的に一元管理せず、心の中で「生活費」「娯楽費」「投資」といった勘定科目に分類する。
- 心の会計: ガチャの1万円は「娯楽費」や「夢を買う費用」という勘定に計上され、心理的な支出の痛みが少ない。一方、靴の1万円は「衣類費」や「資産」として計上され、よりシビアな費用対効果が求められる。
- プロスペクト理論: 人間は利得よりも損失を重く評価する(損失回避性)。靴の購入は「1万円を失う」という確実な損失として認識されやすい。対してガチャは、低確率の大きな利得(SSRキャラ等)と高確率の小さな損失(不要アイテム)が混在する「賭け」であり、射幸心が損失の痛みを麻痺させる。
この非合理的な価値判断こそ、「クズの算数」の正体であり、我々の消費行動の根幹に潜むバイアスなのである。
ケース2:5分の遅刻は30分の遅刻
計算式:「集合に5分遅刻しそうなら、30分遅れても誤差」
これは「認知的不協和」の解消プロセスと、完璧主義に陥りがちな「ゼロか百か思考」の典型例だ。
心理学者レオン・フェスティンガーが提唱した認知的不協和理論では、人は自身の信念と行動が矛盾すると、強い心理的ストレスを感じる。
「時間を守るべきだ(信念)」と「5分遅刻しそうだ(現実)」という矛盾は、「自分はダメな人間だ」という不協和を生む。この不快感を解消するため、人間は信念の方を捻じ曲げる。
「5分の遅刻も30分の遅刻も、”遅刻”という点では同じカテゴリだ」
「いっそ大幅に遅れれば、交通機関のせいなど、外的要因に責任転嫁しやすくなる」
このように認知を再構築することで、「自分のせいではない」という物語を作り上げ、自己評価の低下を防ぐ。これは損失を最小化する合理的判断とは真逆の、自己肯定感を維持するための不合理な最適化と言える。
ケース3:コツコツ努力 vs 週末一発逆転
計算式:「毎日30分の勉強は無理だが、週末5時間やれば取り返せる(※やらない)」
これは、行動経済学における最も有名なバイアスの一つ、「現在志向バイアス(双曲割引)」の完璧な描写である。
人間は、遠い未来の大きな報酬よりも、目先の小さな報酬を過大評価する傾向がある。
「毎日30分の勉強」がもたらす「数ヶ月後の合格」という報酬は遠すぎて価値が低く感じられる。一方で、「今、勉強せずに休む」という快楽は、即座に手に入るため非常に価値が高く感じられる。
「週末にまとめてやる」という計画は、このバイアスから生じる罪悪感を一時的に棚上げし、「やればできる自分」という幻想を維持するための心理的トリックに過ぎない。この計画が実行されないことまで含めて、非常に人間的な不合理性を突いている。
3. なぜ「わかりみ」が”救い”になるのか?―自己正当化の社会的受容
「クズの算数」が単なるバイアスの羅列で終わらないのは、それが『スナックバス江』という作品の文脈で語られるからだ。
- 代理による自己正当化: 読者は、タツ兄や森田が堂々と「クズの算数」を披露する姿を見ることで、普段は心の奥底に隠している自身の不合理な思考を、彼らに代弁してもらう。
- 笑いによる無害化と肯定: スナックのママや明美、そして他の客がその計算をツッコミつつも、最終的には笑い飛ばし、決して全否定はしない。この「笑い」が、本来は自己嫌悪につながりかねない認知の歪みを無害化し、「それも人間らしさだよね」という形で暗に肯定する。
- 社会的証明による安心感: このエピソードがSNSで共有され、「自分もそうだ」という声が可視化されることで、「こんな不合理なことを考えているのは自分だけではなかった」という社会的証明が得られる。これにより、個人の内的な葛藤は、普遍的な人間の弱さとして社会的に受容され、孤独感が和らぐ。
つまり、『スナックバス江』は、認知的不協和を解消するための自己正当化のプロセスを、登場人物に代行させ、笑いを通じて社会的に承認するという、高度な心理的セラピーとして機能しているのだ。
4. 結論:『スナックバス江』は現代社会の「精神的公共財」である
我々は、常に合理的で、生産的で、自己管理能力が高い人間であることを求められる社会に生きている。自己啓発書は認知バイアスを「克服すべき弱点」と説き、SNSは成功者のきらびやかな日常を映し出す。
その中で、『スナックバス江』は、人間のどうしようもない「限定合理性」を、ただそこにあるものとして描き、笑いと共に受け入れる空間を提供する。スナックという、社会的な建前から解放されたサードプレイスは、我々の不合理性が露呈されるのに最適な舞台装置だ。
「クズの算数」は、単なるギャグではない。それは、過剰な自己責任論が蔓延する現代において、「不合理であってもいい」「完璧でなくても生きていていい」というメッセージを伝える、一種の精神的公共財と言えるだろう。
この記事を読んで「どういう計算してんだよ」と笑いながらも、心のどこかで安堵したあなたも、すでにこの不合理で愛すべき計算の恩恵を受けている。そしてそれは、あなたが極めて標準的な認知機能を持つ、人間らしい人間であることの何よりの証左なのである。
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