結論として、近年深刻化するクマ被害は、単なる餌不足という表層的な問題ではなく、クマの学習能力の変化、生息数の爆発的な増加、そして人間社会の環境変化という複合的な要因が絡み合った、極めて複雑な危機的状況にあります。このまま対策を怠れば、クマの生息数は今後5年で倍増し、人里への出没とそれに伴う人的被害は、予測を遥かに超える規模で増加する可能性が極めて高いのです。
1. クマ被害、過去最多の犠牲者――「人間は食べ物」という学習の恐るべきメカニズム
2025年、クマによる人的被害は、過去最悪の記録を更新しつつあります。10月末現在で12名もの尊い命が奪われたという事実は、この問題が単なる「遭遇」というレベルを超え、クマが人間を明確な「獲物」あるいは「食料源」として認識するようになった、極めて危険な段階に入っていることを示唆しています。環境省の集計によれば、2025年度上半期の全国におけるクマ出没件数は2万792件に達し、前年度同時期を大幅に上回るペースで推移しています。この異常事態は、秋田県への自衛隊派遣といった、前例のない対応を招いています。
兵庫県立大学で野生動物の保全管理を専門とする横山真弓教授は、この状況を「5年前から予測されていました」と、強い危機感を以て指摘します。「大変なことになる」という警告は、残念ながら専門家の間では共有されていたものの、社会的な対応が遅れた結果、最悪のシナリオへと突き進んでいるのです。
横山教授が最も警鐘を鳴らすのは、クマが「人間は食べ物」と学習するメカニズムです。クマの摂食行動は、その生息環境における主要な餌資源の利用可能性に強く影響されます。しかし、一度人間との遭遇によって「ご遺体」という形で明確な「肉」、すなわち栄養価の高い食料源を認識してしまうと、その学習能力の高さから、人間を容易に「食べ物」としてカテゴリー化してしまうのです。これは、動物行動学における「オペラント条件付け」の一種とも言えます。報酬（餌）を得るために特定の行動（人里への接近）を繰り返す学習が強化され、人間への警戒心は低下し、より積極的に人里へと接近するようになるのです。一度この学習が定着した個体は、その後の人間による追跡や排除行動に対しても、より巧妙に回避するようになる可能性があり、問題はさらに根深くなります。
2. なぜ、クマは人里へ？ 餌不足だけでは説明できない複合的な要因の深層
クマの出没が問題視される際、しばしば「ブナの実の大凶作」が原因として挙げられます。しかし、横山教授をはじめとする専門家は、この説明はあまりにも単純すぎると指摘します。
- 出没時期の早期化と季節性のずれ: ブナの実の凶作は主に秋季に発生する現象ですが、クマの出没は4月頃から顕著になり始めます。環境省のデータも、4月、5月、6月といった、ブナの実の収穫期よりも遥かに早い段階から出没件数が増加していることを裏付けています。これは、クマが春季から夏季にかけても、人里に容易にアクセスできる餌資源を求めていることを示唆しています。
- 多様な食性への依存と「飢餓」の定義: クマは広範な食性を持つ雑食性動物であり、ブナの実だけでなく、桑の実、サクランボ、ブルーベリーといった果実、さらには農作物（トウモロコシ、果樹、米など）も重要な食料源としています。これらの作物がわずかでも凶作となったり、あるいは人間が管理する餌資源（放置された生ごみ、果樹園の果実など）にアクセスしやすくなると、クマは容易に餌を求めて人里に現れるようになります。これは、動物の「飢餓」が、単なる絶対的な食料不足だけでなく、利用可能な餌資源へのアクセスが困難になった状態をも含むことを意味します。
- 生息数の増加という根本原因：指数関数的増殖の脅威: 横山教授らが最も重要視するのは、クマの生息数そのものが、持続不可能なレベルで増加しているという根本的な事実です。環境省の2020年の調査では、主要な生息域（北海道、秋田県、福島県、長野県、岐阜県など）に4,000頭以上のツキノワグマが生息していると推計されていました。しかし、横山教授らの最新の研究では、クマは年間約15％という、驚異的なペースで増加していることが示唆されています。この増加率は、指数関数的な増殖曲線を描くことを意味し、「このまま捕獲をせずに放置すれば、5年間で生息数は倍増する」という衝撃的な計算結果につながります。
この生息数の増加は、近年の事例からも推測できます。2023年にクマの大量出没が社会問題となった秋田県では、約2,000頭ものクマが殺処分されました。しかし、2025年度の被害状況はそれを上回ると予測されており、秋田県だけでも2年前と比較して2,000頭以上増加し、約1万頭ものクマが生息している可能性も指摘されています。これは、過去の静的な個体数推計が、急速な増加傾向を捉えきれていなかった可能性を示唆しており、現状の把握と対策の抜本的な見直しが急務であることを物語っています。
3. 未来への警鐘：加速するクマとの共存の難しさ――生態系と人間社会のシナジー効果
「5年で倍増」という専門家の予測は、私たちが直面する未来の厳しさを、冷徹なデータとして突きつけています。クマの生息数の指数関数的な増加は、彼らの餌資源を巡る競合を激化させ、より広範な地域への分散を促します。その結果、人間との遭遇頻度は必然的に高まります。さらに、前述した「人間は食べ物」という学習が個体間で共有・伝播していく可能性も否定できません。これは、単に野生動物との距離の問題に留まらず、現代社会のあり方そのものが、野生動物の生態系との調和を大きく損なっている現状を浮き彫りにしています。
都市開発による森林の分断化、農作物の栽培方法の変化、そして地域社会の高齢化による自然環境への監視力の低下など、人間社会側の要因も、クマの生息環境と人間社会の境界線を曖昧にし、リスクを増大させています。
4. 私たちができること：情報共有、意識改革、そして「共存」に向けた実践
クマ被害を最小限に抑え、将来的に「共存」の道を探るためには、私たち一人ひとりの意識改革と、社会全体としての包括的な対策が不可欠です。
- 「フェイクニュース」に惑わされない、最新かつ正確な情報収集と共有: クマの出没情報は、刻一刻と変化します。地元の自治体、警察、そして信頼できる報道機関から発信される最新の出没情報を常に確認し、家族や地域住民と迅速に共有することが、二次被害を防ぐための第一歩です。SNSなどの不確かな情報に惑わされず、公式な情報を重視する姿勢が求められます。
- 「クマを刺激しない」ための科学的根拠に基づいた行動:
- 音による事前告知: 山菜採りやハイキングなど、クマの生息域に立ち入る際は、鈴やラジオ、あるいは定期的な声出しによって、人間の存在をクマに事前に知らせることが極めて有効です。これは、クマが人間を「危険な存在」あるいは「避けるべき存在」として認識する確率を高めます。
- 単独行動の回避と視覚・聴覚の活用: クマは、不意の遭遇を極度に嫌います。複数人で行動し、互いの視覚と聴覚を補完し合うことで、遭遇のリスクを減らすことができます。
- 「見ない」「聞かない」「刺激しない」原則: 万が一、クマと遭遇してしまった場合は、冷静さを保ち、クマを刺激しないことが最優先です。急な動きや大声で威嚇することは、クマを興奮させ、攻撃を誘発する可能性があります。
- 「クマを惹きつけない」環境づくりへの貢献:
- 徹底したごみ管理: 山間部や住宅地の周辺に放置された生ごみや残飯は、クマにとって格好の餌場となります。地域全体でごみの分別や回収体制を徹底し、クマが人里に近づく動機を徹底的に排除する必要があります。
- 農作物管理の工夫: 果樹園や畑では、クマの侵入を防ぐための電気柵の設置や、成熟した果実を早期に収穫するなどの工夫が有効です。
- 専門家への理解と、科学的根拠に基づいた政策への協力: クマの生態や行動様式に関する研究は、被害軽減のための最も強力な武器です。横山教授らの研究のように、最新の知見に基づいた保全管理計画や、効果的な捕獲・駆除戦略の策定には、国民一人ひとりの理解と協力が不可欠です。感情論に流されず、科学的根拠に基づいた政策決定を支援していく姿勢が求められます。
結論：未来への責任――「倍増」という警鐘を、行動へと繋げる
「これから5年で倍増する」という予測は、決して他人事ではありません。これは、野生動物の生息数の増加と、人間社会の環境変化が引き起こす、避けられない未来への警鐘です。クマ被害という現実から目を背けず、冷静かつ具体的な対策を講じていくことが、私たち自身と、そして未来世代の安全を守るための唯一の道です。この危機を乗り越え、人間と野生動物が「共存」できる社会を築くためには、科学的知見に基づいた戦略的なアプローチと、私たち一人ひとりの意識改革が、今まさに求められています。
コメント