【専門家分析】厚生年金保険料の上限引き上げ:単なる負担増ではない、制度の公平性と持続可能性への構造改革
序論:本稿が提示する結論
2027年9月から段階的に実施される厚生年金保険料の標準報酬月額上限の引き上げは、対象となる高所得者層にとって短期的な可処分所得の減少を意味する。しかし、この改正を単なる「負担増」として捉えることは、その本質を見誤る。本稿が提示する結論は、この改革が「①応能負担原則の徹底による世代内の所得再分配機能の強化」「②報酬比例原則の適用範囲拡大による個人の老後所得保障の適正化」「③固定化された保険料率の下での財政調整という、年金制度の持続可能性と公平性を追求するための必然的な構造改革である」という三つの側面から理解されるべきだという点にある。
この記事では、制度改正の背景にある社会保障の理念から、具体的な定量的影響、そしてマクロ経済的視点までを多角的に分析し、この改革が個人のライフプランと日本社会の未来に持つ深遠な意味を解き明かす。
第1章:改正の核心 – なぜ「標準報酬月額65万円」の上限が問題なのか
現在の厚生年金制度において、保険料は「標準報酬月額」に保険料率(18.3%)を乗じて算出される。この「標準報酬月額」とは、被保険者が受け取る報酬を一定の範囲で区分したもので、現在、最高等級は32等級の65万円に設定されている。これは、月収が65万円であれ、100万円、あるいは200万円であれ、保険料および将来の年金額の計算基礎は一律に「65万円」と見なされることを意味する。
この上限設定は、高所得者層にとって保険料負担が収入に比して軽くなる一方、将来の年金給付も実際の高収入に見合った額にはならないという「報酬比例原則の不徹底」を生んできた。今回の改正は、この構造的な歪みにメスを入れるものである。厚生労働省は、その目的を次のように説明している。
(4)厚生年金等の標準報酬月額の上限の段階的引上げ
保険料や年金額の計算に使う賃金の上限の引上げを行い、一定以上の月収のある方に、賃金に応じた保険料を負担していただく…
引用元: 年金制度改正法が成立しました|厚生労働省
この短い記述には、二つの重要な理念が内包されている。第一に「応能負担」の原則である。これは、支払い能力(ここでは収入)に応じて負担を求めるという、税や社会保険制度における「垂直的公平性」の考え方だ。所得格差が社会的な課題となる現代において、高所得者層にその能力に応じた貢献を求めることは、制度の公平性を担保する上で不可欠とされる。
第二に、この一文は触れていないが、支払った保険料に応じて給付を受ける「応益負担」の原則も同時に強化される点だ。上限が引き上げられることで、高所得者層はより多くの保険料を支払うが、それは将来の年金給付(報酬比例部分)の増加に直結する。つまり、この改革は負担と給付の関係性を、より実態の収入に近づける「正常化」のプロセスでもあるのだ。
第2章:具体的な影響の定量的分析 – 負担増と給付増のメカニズム
今回の改正による具体的な影響は、報道によってその輪郭が示されている。
厚生労働省が2027年9月から高所得者の厚生年金保険料を3段階で引き上げる方針で調整中です。最終的に月額約9,000円の負担増が見込まれます。
引用元: 【社労士監修】高所得者の厚生年金保険料上げ、27年9月から厚労省案を解説|エデンレッドジャパン
この「月額約9,000円の負担増」という数字を専門的に分解してみよう。これは労使合計の金額であり、厚生年金保険料は労使折半であるため、被保険者個人の負担増は最大で月額約4,500円となる。
この負担増を生む上限の引き上げが、仮に「65万円→83万円→101万円→125万円」といった段階(※これは一例)で進むと仮定した場合、最終的に標準報酬月額の上限が約88万円に達した際に、労使合計の保険料月額が約9,000円増加する計算となる((88万円-65万円) × 18.3% ≒ 42,090円/月、その労使合計での増加分が報道の数字と近い値となるシナリオも考えられる。正確な引き上げ幅は今後の政令で定められる)。
重要なのは、この負担増が将来の給付にどう反映されるかである。老齢厚生年金の報酬比例部分は、簡略化すると以下の式で計算される。
報酬比例年金額(年額) ≒ 平均標準報酬額 × 5.481/1000 × 被保険者期間月数
仮に、標準報酬月額が23万円高い水準(例:65万円→88万円)で40年間(480ヶ月)保険料を納付し続けた場合、将来の年金受給額(年額)は単純計算で 230,000円 × (5.481/1000) × 480ヶ月 ÷ 40年 ≒ 約15万円/年 増加する可能性がある。
(※これはあくまで簡易的な試算であり、実際の計算はより複雑な要素を含む)
つまり、月額約4,500円の追加負担は、将来的に年額15万円程度の終身年金として還元される可能性がある。これは、短期的な負担増を、老後の安定した所得源への「長期的投資」と捉え直す視点を提供する。
第3章:制度設計の思想 – なぜ保険料「率」は18.3%で固定なのか
今回の改正について、「また年金負担が増えるのか」という印象を持つかもしれないが、制度設計の観点からは極めて重要な事実がある。それは、保険料の「率」そのものは引き上げられていないという点だ。
厚生年金保険の保険料率は、年金制度改正に基づき平成16年から段階的に引き上げられてきましたが、平成29年9月を最後に引上げが終了し、厚生年金保険料率は18.3%で固定されています。
引用元: 厚生年金保険料額表|日本年金機構
2004年の年金制度改正で導入された「保険料水準固定方式」と「マクロ経済スライド」という二つの仕組みを理解することが、今回の改正を深く知る鍵となる。政府は、少子高齢化が進行する中でも制度が破綻しないよう、保険料率の上限を18.3%に固定することを国民に約束した。その代わり、年金財政のバランスを取るために、給付額の方を社会経済情勢(物価や賃金の変動、平均余命の伸び)に応じて自動的に調整する仕組み(マクロ経済スライド)を導入したのである。
この大原則の下では、保険料率の引き上げという選択肢は封じられている。したがって、財政基盤の強化や制度の公平性確保を図るためには、保険料率以外のパラメータ(調整弁)を動かす必要がある。今回の「標準報酬月額の上限引き上げ」は、まさにこの文脈で行われる調整なのである。これは、消費税で言えば「税率」を上げるのではなく、これまで非課税だった品目に課税する「課税ベース」を拡大するのに似ている。制度の根幹である「保険料率18.3%固定」という国民との約束を守りながら、応能負担の原則を強化し財源を確保するための、極めて合理的な政策手段と言える。
第4章:多角的視点から見た論点と課題
この改革は合理的である一方、いくつかの論点も存在する。
- 企業経営への影響: 労使折半であるため、企業の法定福利費も増加する。特に、高スキル・高賃金の人材を多く抱えるIT企業や専門サービス業などでは、人件費の上昇が経営判断に影響を与える可能性がある。これは、賃上げの機運に水を差す要因となるのか、あるいは企業の収益性に見合った当然の社会的コストと見なされるのか、経済界の反応が注目される。
- 他の社会保険制度との比較: 健康保険料の標準報酬月額上限は139万円、介護保険料も同様の基準で計算される。これに対し、厚生年金の65万円という上限は長らく突出して低かった。今回の改正は、他の社会保険制度との整合性を図り、社会保障制度全体としての一貫性を高める動きと捉えることもできる。
- 「負担と給付」のバランスを巡る議論: 高所得者層からは、追加負担に対するリターン(年金増加額)が、私的年金など他の金融商品と比較して見劣りするという見方が出る可能性もある。しかし、公的年金は純粋な金融商品ではなく、世代内・世代間の所得再分配という社会的連帯の仕組みであり、個人の損得勘定のみで評価することは本質的ではない。この制度の「保険」および「社会扶助」としての側面を、社会全体で再確認する必要がある。
結論:未来の社会契約としての年金制度への再コミットメント
本稿で分析した通り、厚生年金保険料の標準報酬月額上限引き上げは、単発の負担増政策ではない。それは、応能負担の原則を強化し、報酬比例の理念を実態に近づけ、マクロ経済スライドと保険料率固定という制度設計の枠内で財政の安定化を図る、多層的かつ合理的な構造改革である。
この改正は、私たち一人ひとりに、短期的な手取り額の変動だけでなく、年金制度が持つ「社会的連帯」という本質について考えることを促す。目先の負担は、将来の自身の生活を支えるだけでなく、現役世代が高齢者世代を支え、高所得者層が制度全体を支えるという、見えざる社会契約への再コミットメントでもある。
自らの給与明細と「ねんきん定期便」を突き合わせ、この改革が自身のライフプランに与える影響を具体的にシミュレーションすること。そして、その先に広がる日本の社会保障の未来像に思いを馳せること。それこそが、このニュースを真に理解するための、専門的かつ主体的なアプローチと言えるだろう。
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