導入:社会契約の再定義を迫る野口氏の提言 ― 閉山期の遭難は「自己責任」か?
登山シーズンが公式に幕を閉じ、静寂に包まれるはずの山々で、閉山期における山岳遭難事故が後を絶ちません。この、行政の対応と個人の登山行動の間の根深い緊張関係に対し、著名な登山家である野口健氏が提起した「もう、閉山期に関しては遭難しても行政としては救助はしないと宣言すればいいのかもしれない」という持論は、単なる過激な意見表明に留まらず、我々が当然と考えている「公的救助」という社会契約のあり方そのものに、根本的な問いを投げかけています。本稿では、この野口氏の提言を核とし、閉山期の登山が孕む固有のリスク、行政が負うべき責任の範囲、そして登山者個人が負うべき「リスク受容」の深層について、専門的な視点から多角的に掘り下げ、その因果関係と、社会全体として取るべき道筋を考察します。
1. 閉山期の山岳:フィールドの「非日常性」と「インフラの不在」
野口氏の提言の根幹を理解するには、まず閉山期の山岳が、登山シーズン中とは全く異なる「フィールド」であることを認識する必要があります。テレビ朝日系で報じられた富士山の事例は、この現実を浮き彫りにしました。9月10日に正式な登山シーズンが終了し、通行禁止の看板が設置されたにも関わらず、無許可で立ち入る登山者が後を絶たないという事実は、登山者の一部に閉山期=「休業期間」という認識が希薄であることを示唆しています。
登山写真家のmush(植田めぐみ)氏がX(旧Twitter)で指摘したように、閉山後の山は「観光登山」の場所ではなくなります。具体的には、以下の要素が決定的な違いを生み出します。
- インフラの撤去・閉鎖: 山小屋は営業を停止し、飲料水や食料の補給、悪天候時の避難場所としての機能が失われます。トイレも閉鎖され、衛生環境も悪化します。これは、単なる不便に留まらず、遭難時の生存率に直接影響する要素です。
- 通信環境の劣化: 携帯電話のアンテナが撤去されたり、電源が落とされたりすることで、電波が届きにくくなります。これは、現代社会における「 lifeline」とも言える通信手段が失われることを意味し、遭難時の通報や救助要請を著しく困難にします。緊急時における通信網の途絶は、地理的孤立と情報的孤立を同時に招きます。
- 人的サポートの不在: 山岳救助隊やボランティアの常駐体制が解除され、救助活動の体制が縮小・停止されます。これは、迅速かつ専門的な救助活動が期待できない状況を意味し、遭難発生から救助までの時間が大幅に増加するリスクを高めます。
これらの要素は、閉山期の山を「自然の厳しさが剥き出しになった、人為的な安全装置が極めて少ない環境」へと変貌させます。このフィールドの特性を理解しないまま登山を行うことは、意図せずして、自身の生命だけでなく、将来的な救助活動に関わる公務員やボランティアの生命をも危険に晒す行為となり得ます。
2. 野口健氏の持論:「救助しないと宣言」の社会的・倫理的含意
野口氏の「救助はしないと宣言すればいい」という言葉は、一見、人命軽視とも取られかねません。しかし、その背景には、より深い社会的・倫理的な議論が潜んでいます。
2.1. 行政の「過剰な負担」と「責任の希釈」
現代社会において、行政による山岳救助は、一種の「暗黙の保証」として機能しています。これは、税金という形で国民が負担するコストによって支えられており、その費用対効果、あるいは「必要性」が常に問われるべき領域です。閉山期に発生する遭難事故の多くは、登山シーズンの終了という明確な「リスク告知」があったにも関わらず、個人の判断によって引き起こされています。
もし、行政が「閉山期の遭難は救助しない」と公式に宣言した場合、それは以下の二つの効果をもたらすと推測されます。
- 行政コストの最適化: 救助活動は、装備、訓練された人員、出動にかかる燃料費、保険料など、莫大なコストを必要とします。閉山期の無謀な登山者に対する救助活動にリソースを割くことは、本来、より多くの登山者にとって恩恵をもたらすであろう、シーズン中の安全対策や、より緊急性の高い事故への対応リソースを圧迫する可能性があります。野口氏の提言は、限られた行政リソースを、より効果的かつ合理的に配分するための、一つの提案とも解釈できます。
- 「責任の所在」の明確化: 公的救助の存在は、登山者にとって「最悪の事態」を回避してくれるという心理的セーフティネットとなり得ます。しかし、このセーフティネットに過度に依存することは、個人のリスク管理意識を低下させる可能性があります。救助されないという「宣言」は、登山者個人に、遭難した場合の「究極の自己責任」を強く意識させる効果を持つと考えられます。これは、現代社会が抱える「リスクの外部化」という課題に対する、一つのカウンターメッセージとも言えます。
2.2. 登山者への「倫理的警鐘」と「意識改革」の必要性
野口氏の提言は、閉山期に登山を敢行する個人に対する、痛烈な倫理的警鐘でもあります。
- 「自己責任」の真の意味: 閉山期の登山は、その厳しさとリスクを十分に理解し、万全の準備と覚悟を持って臨むことが絶対条件となります。これには、専門的な登山技術、高度な判断力、そして緊急時のサバイバル能力が含まれます。単に「自己責任」という言葉を口にするだけでなく、それが具体的に何を意味するのかを深く理解し、実行できる能力が求められます。
- 「公共の安全」への配慮: 閉山期の救助活動は、登山者個人だけでなく、救助隊員という「公僕」の生命をも危険に晒します。無謀な登山による遭難は、彼らに不要なリスクを強いることになります。個人の登山行動が、社会全体の安全やリソースに与える影響を考慮するという、公共性の観点からの意識改革が不可欠です。
3. 閉山期の登山:リスクの構造と「高度なリスク受容」の要件
閉山期の登山におけるリスクは、単なる「天候の悪化」といった表面的なものではありません。それは、複数の要因が複合的に作用し、遭難確率を飛躍的に高める構造を持っています。
- 積雪・凍結と滑落・埋没リスク: 冬季の登山道は積雪や凍結により、本来の難易度が格段に上昇します。特に、岩稜帯や急峻な斜面では、わずかな滑りが致命的な滑落事故に繋がります。また、深雪地域では、視界不良と相まって、雪崩やクレバスへの埋没リスクも高まります。
- 低体温症(Hypothermia): 外気温の低下、風、雨、雪などにより、体温が著しく奪われる低体温症は、閉山期の登山における最も恐ろしい脅威の一つです。初期症状は判断力の低下を招き、適切な対処が遅れると、意識喪失、さらには死に至ります。
- 物資・装備の制限: 山小屋の閉鎖は、食料、水、燃料の補給機会を奪います。また、緊急時の避難場所がないため、悪天候に遭遇した場合、野宿を強いられる可能性が高まります。さらに、冬季特有の装備(ワカン、スノーシュー、ピッケル、アイゼン、冬用テントなど)の携行は、重量増加と行動の制限を伴います。
- 視界不良とルートロスト: 雪や霧による視界不良は、地形の把握を困難にし、ルートロスト(道迷い)のリスクを増大させます。GPS機器も、バッテリーの消耗や地形によっては精度が低下するため、絶対的な安全策とはなり得ません。
これらのリスクを「高度に管理」し、かつ「結果を自身で受容」できるレベルに達している登山者のみが、閉山期の登山に臨む資格を持つと言えるでしょう。これは、単に「経験がある」というレベルを超え、冷静な状況判断、的確なリスク評価、そして最新の登山技術と装備に関する深い知識、さらには精神的な強靭さまでをも要求される、高度な専門性です。
4. 結論:社会的契約の再定義と「覚悟」を伴う自由
野口健氏の提言は、閉山期の山岳遭難という喫緊の課題に対し、社会全体で「行政の救助責任」と「個人のリスク受容」の境界線を再定義する必要があることを示唆しています。
「行政としては救助はしないと宣言すればいい」という言葉は、表層的な意味合いを超え、現代社会における「公的サービス」のあり方、そして「個人の自由」と「公共の福祉」のバランスについて、我々に熟考を促します。これは、登山に限らず、あらゆる「リスクを伴う自由」に対する、現代社会のあり方そのものへの問いかけと言えます。
最終的な結論として、閉山期の登山における遭難は、そのフィールドの特性と、個人の行動選択の因果関係を厳密に考慮した場合、行政が提供する「暗黙の安全網」の範疇を超える、「高度なリスク受容」を伴う行為であると断じざるを得ません。
登山者一人ひとりが、閉山期の山の本質的な厳しさを直視し、専門的な知識、技術、そして精神的な覚悟をもって臨むことが、安全な登山への第一歩です。行政は、その「覚悟」を持たない登山者への警鐘を強める、あるいは救助体制の限界を明確に示唆するような、より踏み込んだ情報発信や、場合によっては「救助しない」という宣言も視野に入れるべきでしょう。
野口氏の提言は、我々に「自由」の代償としての「責任」を、そして「安全」は誰かによって無償で提供されるものではないという、厳しい現実を突きつけています。閉山期の静寂な山々が、その美しさや荘厳さを保ち続けるためには、自然への畏敬の念と、自身の行動に対する揺るぎない「覚悟」が、何よりも不可欠なのです。そして、その覚悟は、現代社会が直面する多くの「リスクと自由」に関する議論にも、示唆を与えるものであると言えるでしょう。
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