結論:日本人の海外旅行への関心の低さは、国内旅行の魅力再評価、価値観の多様化、そして経済的・心理的ハードルという構造的な要因が複合的に作用した結果である。特に、高度経済成長期に形成された集団主義的な価値観と、近年の個人主義的な価値観の狭間で揺れ動く日本社会特有の状況が、海外旅行への積極性を阻害している。
1. 国内旅行の魅力再発見:多様性と利便性、そして「故郷」への回帰
「国内旅行でも色々いいところがあるからする必要がない」という意見は、単なる利便性の問題を超え、日本人の「場所」に対する認識の変化を示唆している。日本は、多様な自然、歴史、食文化に加え、高度に発達したインフラと治安の良さを兼ね備えている。しかし、その魅力は単に「手軽さ」に留まらない。
近年、地方創生やワーケーションといったキーワードが注目されるように、国内旅行は「地域との繋がり」や「自己の再発見」の場として再評価されている。これは、アントニオ・グラムシの「ヘゲモニー」の概念で説明できる。高度経済成長期に都市部中心の価値観が「常識」として浸透していたが、近年、地方の魅力が再認識され、その価値観が揺らぎ始めているのだ。
さらに、コロナ禍における入国制限は、国内旅行への依存度を高め、結果として国内観光資源の価値を再認識する契機となった。これは、行動経済学における「現状維持バイアス」とも関連する。一度国内旅行の利便性や魅力を体験すると、人は変化を避け、現状維持を好む傾向が強まる。
2. 価値観の変化:旅行の目的と優先順位の個人化、そして「自己投資」の重視
かつて、海外旅行は「ステータスシンボル」であり、経済的余裕のある層が「見栄」のために利用する側面があった。しかし、現代社会においては、旅行の目的は多様化し、自己実現、リフレッシュ、家族との絆の深化といった内面的な価値を重視する傾向が強まっている。
この変化は、マズローの欲求段階説で説明できる。物質的な欲求が満たされると、人はより高次の欲求、すなわち自己実現や自己成長を追求するようになる。旅行は、そのための手段として捉えられる。
特に、若い世代においては、「自己投資」という考え方が浸透しており、旅行は単なる消費ではなく、将来のキャリアや自己成長に繋がる「投資」として捉えられる。しかし、この「自己投資」の対象は、必ずしも海外旅行に限定されない。国内のセミナーやワークショップ、スキルアップのための学習など、多様な選択肢が存在する。
3. 海外旅行への心理的なハードル:言語、文化、治安、そして「異文化への不安」
海外旅行には、言語、文化、治安といった心理的なハードルが存在する。しかし、これらのハードルは、単なる知識不足や語学力の問題に留まらない。
ゲルト・ホフステデの文化次元理論によれば、日本は「権力格差」「集団主義」「男性性」「不確実性の回避」のスコアが高い。これは、日本人が権威を尊重し、集団行動を好み、曖昧さを嫌い、リスクを回避する傾向があることを示している。
このような文化的背景から、日本人は海外旅行において、言語の壁や文化の違い、治安への不安といった「不確実性」に対して強いストレスを感じやすい。また、集団主義的な価値観から、個人で行動することへの抵抗感も存在する。
4. 経済的な要因:円安と物価上昇、そして「相対的貧困」の拡大
近年、円安や世界的な物価上昇の影響を受け、海外旅行にかかる費用が高騰している。これは、海外旅行を諦める理由の一つとなっている。
しかし、経済的な要因は、単に物価の上昇に留まらない。日本の経済停滞と格差の拡大により、「相対的貧困」と呼ばれる状況に陥っている人々が増加している。相対的貧困とは、社会全体の所得水準と比較して、所得が低い状態を指す。
このような状況下では、海外旅行は「贅沢品」として捉えられ、優先順位が下がる傾向がある。また、経済的な余裕がない人々は、海外旅行に行くための時間や労力を捻出することも難しい。
5. 一度行けば満足? 経験の質と満足度、そして「観光客化」の限界
「普通の日本人は海外旅行に一生行かないか一度だけ行けば満足できる」という意見は、海外旅行の経験に対する満足度が低いことを示唆している。
これは、観光学における「観光客化(touristification)」の概念で説明できる。観光客化とは、観光地が観光客向けに過度に整備され、現地の文化や生活が失われる現象を指す。
多くの日本人は、海外旅行において、観光客向けの体験ばかりを消費し、現地のリアルな姿に触れる機会が少ない。その結果、期待とのギャップを感じ、満足度の低い体験となることがある。
また、短期間の滞在では、現地の文化や生活に深く触れることができず、表面的な理解に留まることが多い。
まとめ:構造的な要因と価値観の多様化、そして「内なる旅」の可能性
日本人の海外旅行への関心が低い背景には、国内旅行の魅力、価値観の変化、心理的なハードル、経済的な要因、経験の質と満足度など、様々な要因が複雑に絡み合っている。
しかし、これらの要因は、単独で存在するのではなく、相互に影響し合っている。特に、高度経済成長期に形成された集団主義的な価値観と、近年の個人主義的な価値観の狭間で揺れ動く日本社会特有の状況が、海外旅行への積極性を阻害している。
今後、円安や物価上昇が続く場合、国内旅行の魅力はさらに高まる可能性がある。一方で、海外旅行のハードルを下げるためには、多言語対応の強化、安全対策の徹底、旅行費用の低減に加え、現地の文化や生活に深く触れることができるような、質の高い旅行体験を提供する必要がある。
しかし、最も重要なのは、旅行の目的や価値観を多様化し、それぞれの価値観に合った旅行を選択することである。海外旅行だけでなく、国内旅行、あるいは自宅での読書や映画鑑賞といった「内なる旅」も、自己成長や自己実現の手段となり得る。
日本人が真に豊かになるためには、多様な選択肢の中から、自分自身の価値観に合った「旅」を見つけることが重要である。そして、その「旅」を通じて、自己を深く理解し、より良い未来を創造していくことが求められる。


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