結論：岩手県における警察官によるクマ駆除の導入は、緊急時対応の強化という側面を持つ一方、野生動物との対峙に不可欠な「実践経験」の欠如という根本的な課題を露呈させており、ハンターたちの長年の経験と地域社会の安全確保との間の、複雑かつ深刻な軋轢を生んでいる。この新たな体制が真に効果を発揮するためには、単なる人員増強に留まらず、ハンターたちの長年にわたる知見と高度な技術を尊重し、その「経験」をどのようにシステムに組み込むかが、将来的な共存共栄の鍵となる。
1. 緊急対応への期待と「的撃ち」の落とし穴：実践経験の不可欠性
2025年11月17日、岩手県において警察官によるライフル銃を用いたクマ駆除が公式に可能となった。この決定は、近年増加の一途を辿るクマによる人身被害や農作物被害、そしてそれに伴う地域住民の安全への脅威に対する、行政による新たな一歩として捉えられよう。特に、市町村の判断が遅れる緊急時や、現場のハンターが不足する状況下での迅速な対応が期待される。秋田県警の小林稔本部長が「クマ駆除対応プロジェクトチームを発足し対応していく」と表明し、岩手県警察本部警備部哘崎正宏機動隊長も「クマ被害対策・対応に尽くします」と決意を固めていることは、この体制への期待を裏付ける。
しかし、この動きは、長年、地域社会の安全と野生動物との共存を両立させるべく、日々危険と隣り合わせでクマと向き合ってきた地元猟友会のメンバー、特に花巻市猟友会で50年以上狩猟に携わる菅実さん（74）のようなベテランハンターたちに、複雑な心情と深い懸念をもたらしている。菅さんの「体制としては悪くない。我々猟友会への丸投げではなく、こうした機関が動いてくれるのはありがたい部分もある」という言葉は、行政の努力自体を否定するものではないことを示唆している。だが、その後に続く「実践向けではないと思う」という断言は、この新たな体制が抱える根本的な課題を浮き彫りにする。
「クマだって、はい撃ってくださいと止まったりしているわけではない。的撃ちと実際にクマを駆除するというのは全く違う」という菅さんの指摘は、単なる射撃技術の差に留まらない、野生動物駆除における経験値の質的な違いを物語っている。静止した標的を狙う「的撃ち」と、予測不能な状況下で、時に威嚇し、時に俊敏に動き回る、強靭な生命力を持つ野生のクマを対象とする駆除は、要求される能力が根本的に異なる。そこには、標的の動き、地形、風向き、遮蔽物、そして何よりも、瞬間的な判断力と、生命を奪うという行為に対する精神的な覚悟が複合的に求められる。警察官が「的撃ち」の訓練しか経験していない場合、実際の現場において、その技術や判断力がどこまで通用するのかは未知数であり、予期せぬ事態を招くリスクは否定できない。
2. 警察官の出動：期待される組織力と「経験」という名の壁
警察官の有する高い専門性、組織力、そして装備は、迅速な対応が求められる緊急事態において、確かに大きな力となるだろう。これまでは猟友会に依存せざるを得なかったクマ対策において、公的な機関が介入することは、より体系的かつ広範な対策を可能にするという期待は大きい。例えば、広域的な情報共有の強化や、より専門的な訓練を受けた部隊の編成などが考えられる。
しかし、ここでも「経験」という名の壁が立ちはだかる。警察官による駆除が、単なる「指示された場所へ行って、標的を撃つ」というオペレーションに留まるのであれば、それは「的撃ち」の延長に過ぎない。野生動物の行動は、個体差、年齢、性別、季節、そして人間との遭遇頻度など、多岐にわたる要因によって変動する。例えば、学習能力の高いクマは、人間が近づけない場所や、過去に人間との遭遇で危険な経験をした場所を避ける傾向がある。また、獲物を狙う狩猟とは異なり、駆除においては、人身被害を防ぐという目的から、より迅速かつ確実な射撃が求められるが、それは同時に、クマに過度な警戒心を与え、さらなる問題を引き起こす可能性も孕んでいる。
「これから経験を積んでいけば良い」という意見も存在するだろう。しかし、野生動物との対峙の現場においては、その「経験」の積み重ねが、直接的に命の危機に繋がりかねない。一回の誤った判断や、未熟な技術が、人身被害や、駆除対象となるクマを必要以上に苦しめる結果を招く可能性は、決して看過できない。この点において、長年の経験を持つハンターたちが抱く懸念は、単なる「自分たちの仕事が奪われる」という感情論ではなく、実践的な安全確保の観点から、極めて重い意味を持っている。
3. ハンターたちの複雑な心情：経験と経験不足の交差点、そして「管理」という責任
ネット上などで見られる「誰だって初めは初心者」「習うより慣れ」といった声は、一見、警察官の活動を擁護するかのようにも聞こえる。しかし、これは、50年以上の歳月をかけて、自らの命を危険に晒しながら、地域社会の安全を守り、野生動物との関係性を学んできたハンターたちの「実践」の重みとは、質的に異なる。彼らが長年培ってきたのは、単に銃を撃つ技術だけではない。それは、クマの生息地、行動パターン、個体識別、そして何よりも、野生動物を「管理」する責任感に裏打ちされた、総合的な知見である。
「間引きノルマを作ってクマ駆除してくれ」といった声は、クマの個体数増加に対する強い危機感の表れであるが、同時に、ハンターたちが単なる「駆除者」ではなく、地域生態系のバランスや、持続可能な資源管理という観点から、問題に取り組んできた証でもある。彼らは、単に数を減らすことだけを目的としているのではなく、生態系への影響、狩猟方法の倫理、そして地域住民との調和といった、より広範な視点から問題に取り組んできた。この「管理」の知恵は、単なる技術論を超えた、地域に根差した「生きた知識」であり、これを軽視するような体制は、長期的な視点で見れば、問題の根本的な解決には至らないだろう。
警察官による駆除が、これらのハンターたちの経験や知見をどのように活かし、連携していくのかが、今後の最大の課題となる。技術の伝承、現場での連携体制の構築、そして何よりも、野生動物と向き合うことの難しさや、生命を奪うことの倫理観といった、ハンターたちが長年培ってきた「心」の部分、すなわち「覚悟」や「敬意」を、いかに共有し、尊重していくのかが問われる。これは、単に「技術」の伝達ではなく、「哲学」の共有とも言えるだろう。
4. 情報の補完と拡張：クマ対策における「行動生態学」と「リスクアセスメント」の重要性
参考情報で触れられていない、より専門的な観点として、クマ対策における「行動生態学」と「リスクアセスメント」の重要性を強調したい。
- 行動生態学: クマの行動は、単なる本能的なものだけでなく、環境要因や他個体との相互作用によって複雑に変化する。例えば、食料源の枯渇（特にドングリなどの主要な栄養源の不作）は、クマを人里へ出没させる主要因の一つである。また、子育て中の母グマは特に攻撃的になる傾向があり、遭遇時の対応は個体によって大きく異なる。警察官がこれらの行動生態学的な知見を持たない場合、不適切な対応が事態を悪化させる可能性がある。行動生態学的な知見は、クマの出没予測、行動パターンの分析、そして効果的な駆除・回避策の立案に不可欠である。
- リスクアセスメント: クマ駆除は、常にリスクを伴う行為である。警察官による駆除が導入されることで、新たなリスクが生じる可能性がある。例えば、警察官がクマに接近しすぎて負傷するリスク、誤射によって人間や他の動物に被害を与えるリスク、あるいは、駆除に失敗したクマがさらに攻撃的になるリスクなどが考えられる。これらのリスクを事前に詳細に評価し、それに基づいた安全対策、訓練、および事後評価の仕組みを構築することが不可欠である。ハンターたちは、長年の経験を通じて、暗黙のうちに高度なリスクアセスメントを行っている。この経験を形式知化し、警察官の訓練や作戦立案に反映させる必要がある。
5. 未来への提言：共存共栄を目指す「経験」の集約と「管理」の再定義
岩手県におけるクマ駆除問題は、単に「駆除」という行為の担い手を増やすという単純な話ではない。そこには、長年の経験を持つハンターたちの知見、地域社会の安全への願い、そして野生動物との共存という、多角的な視点からのアプローチが不可欠である。警察官による駆除体制の始動は、緊急時対応という限定的な側面では、一定の期待を抱かせる。しかし、その真の成功は、現場のハンターたちとの密接な連携、彼らの経験と知識の尊重、そして継続的な実践的な訓練にかかっている。
今後、岩手県がクマとの共存共栄の道を歩むためには、以下の点が重要となる。
- 「経験」の構造化と共有: ハンターたちが長年培ってきた「実践知」を、行動生態学的な知見やリスクアセスメントのフレームワークと統合し、形式知化する。これを基盤とした、警察官への実践的な訓練プログラムを開発・実施する。単なる射撃訓練ではなく、クマの生態、行動パターン、状況判断、そして倫理的な側面までを含む総合的な教育が必要である。
- 連携体制の抜本的強化: 警察と猟友会が、定期的な情報交換会、合同訓練、そして現場での共同作戦の実施を通じて、緊密な連携体制を構築する。ハンターを「指導者」あるいは「協力者」として位置づけ、彼らの経験と知見を最大限に活用する。
- 「管理」の概念の共有と拡大: クマ駆除を、単なる「有害鳥獣駆除」から、地域生態系保全と共存を目指す「野生動物管理」へと昇華させる。この管理には、個体数管理だけでなく、生息環境の保全、人間と野生動物の緩衝帯の整備、そして地域住民への啓発活動なども含まれる。ハンターたちの「管理」の知恵を、行政の政策立案に反映させる仕組みを構築する。
- 地域社会との対話の深化: クマとの共存に関する問題意識を共有し、地域住民一人ひとりが、野生動物との向き合い方について主体的に考える機会を提供する。情報公開を徹底し、透明性の高いクマ対策を進める。
響く銃声の陰で、ハンターたちの複雑な心情に寄り添い、現場の実情に即した、より効果的で持続可能なクマ対策の実現が、今、岩手県に求められている。それは、警察官の「組織力」とハンターの「経験」という、一見対立する要素を調和させ、真の「野生動物管理」へと進化させることで、人間と野生動物が、互いの存在を尊重し、共存していくための、重要な一歩となるはずである。この課題への取り組みは、岩手県だけでなく、全国で増加する野生動物との共存問題に対する、一つのモデルケースとなる可能性を秘めている。
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