公開日: 2025年08月10日
ヒグマ駆除を巡る断絶の本質:それは「感情 vs 理性」ではなく「リスク認知の非対称性」である
序論:なぜ私たちはヒグマを巡り分断されるのか
2025年7月、北海道福島町で発生したヒグマによる死亡事故は、日本社会に根深く存在する「分断」を改めて浮き彫りにしました。駆除されたヒグマに対し、一部からは「かわいそう」という同情の声が上がる一方、現地からは「安全確保が最優先」という切実な叫びが上がりました。この対立は、単なる「動物愛護 vs 人命尊重」という単純な二元論では捉えきれません。
本稿で提示する結論は、この社会的分断の根源が「感情」と「理性」の対立にあるのではなく、生命への脅威を日常的に実感する『現地』と、そのリスクから物理的・心理的に遠い『都市部』との間に存在する、埋めがたい『リスク認知の非対称性』にある、ということです。この構造的な問題を理解せずして、建設的な議論は始まりません。
本記事では、福島町の事例を科学的・社会学的な視点から多角的に分析し、ヒグマの生態学、野生動物管理の原則、そしてリスク社会における人間の認知バイアスを解き明かすことで、この根深い断絶を乗り越えるための道筋を探ります。
1. 脅威の実像:それは「不運な遭遇」ではなく「捕食目的の接近」だった
まず、この議論の出発点として、現地で何が起きていたのかを正確に理解する必要があります。「ヒグマがかわいそう」という感情が生まれる背景には、しばしば「山で静かに暮らしていたクマが、不運にも人間と出遭ってしまった」という牧歌的なイメージが存在します。しかし、福島町の現実はその対極にありました。
被害に遭われた新聞配達員の男性が、事件前に抱いていた恐怖は、その異常性を物語っています。
襲撃の4日ほど前から何度もクマにまとわりつかれ、身の危険を感じていた
引用元: 【ヒグマ速報・新事実】「ナイフ持った方がいいかな」死亡した… (UHB 北海道文化放送)
専門的な見地から分析すると、この「まとわりつく」という行動は、ヒグマが単に人間を警戒したり、好奇心を示したりするレベルを逸脱しています。これは、ヒグマが人間を「獲物候補」として執拗に観察し、隙をうかがう「捕食目的の接近(Predatory Approach)」であった可能性が極めて高いことを示唆します。野生動物が捕食対象に行う、距離を詰め、逃げ道を塞ぎ、相手の弱点を評価する一連の行動です。男性が「ナイフを持った方がいいかな」と口にするほどの恐怖は、この捕食者からの計り知れないプレッシャーを肌で感じていた証左と言えるでしょう。
事件の凄惨さは、この分析を裏付けます。
「玄関前の砂利は赤く染まり、血痕が…」「クマの体の下に人間の腕らしきものが」
引用元: 「玄関前の砂利は赤く染まり、血痕が…」 北海道ヒグマ襲撃事件で… (Yahoo!ニュース/週刊女性PRIME)
この光景は、防御的な攻撃(人間を追い払うための攻撃)ではなく、明確な捕食・食害行為があったことを物語っています。野生動物管理において、人間を食害した個体は、最も危険なカテゴリーに分類されます。これは「かわいそう」という感情論が介在する余地のない、客観的なリスク評価の次元です。
2. “常習犯”という科学的証明:個体管理の原則と「山へ返す」非現実性
今回の事件が社会に与えた衝撃をさらに増幅させたのが、駆除されたヒグマの正体です。感情的な議論に科学的な楔を打ち込む、決定的な事実が明らかになりました。
DNA鑑定により、4年前の死亡事故と同一個体の関与が判明。
引用元: 人食い熊が4年越しに再出没 北海道福島町を恐怖に陥れた“二度襲う… (Coki)
この事実は、野生動物管理学における「問題個体(Problem Animal)」の概念の重要性を証明しています。一度人間を襲い、特にその肉を「食料」として学習した個体は、その成功体験から人間への恐怖心を失い、人を効率的な獲物として認識するようになります。この学習は極めて強固で、不可逆的です。
「山に返せば良い」という意見は、この科学的原則を無視しています。一度「人の味」を覚えた個体を元の生息域に戻すことは、時限爆弾を再び設置するに等しい行為です。別の地域に放獣しても、その個体は再び人里に現れ、同様の悲劇を引き起こす可能性が非常に高いのです(転送問題)。
4年前に起きた最初の事件の記憶は、この個体の危険性をより鮮明に物語っています。
「4年前ヒグマに襲われた被害者は『上半身』が見つかってないんだ!」
引用元: 「4年前ヒグマに襲われた被害者は『上半身』が見つかってないんだ… (Yahoo!ニュース/SmartFLASH)
この証言は、当該個体が人間を単なる排除対象ではなく、恒常的な食料源として認識していたことを強く示唆します。このような学習能力の高い捕食者を前に、「共存」という言葉は理想論に過ぎず、地域住民にとっては悪夢の再来を意味しました。したがって、この個体の駆除は「残酷な報復」ではなく、さらなる犠牲者を防ぐための、科学的根拠に基づいた予防的なリスク管理措置だったのです。
3. 「人間が駆除されるべき」という声の正体:リスク認知の非対称性という断絶
事件後、福島町役場や北海道庁には、現地の実情とは乖離した意見が殺到し、行政機能を麻痺させる事態にまで発展しました。
「人間が駆除されるべき」「山へ返せば良い」
引用元: 「人間が駆除されるべき」「山へ返せば良い」北海道福島町で… (Yahoo!ニュース/HBCニュース北海道)
北海道知事が「北海道外からものすごい連絡が…仕事にならない」と苦言を呈したこの現象は、なぜ発生するのでしょうか。これを単に「無知」や「偽善」と切り捨てるのは容易ですが、その背景にある社会心理学的なメカニズムを理解することが、問題解決の鍵となります。
これが本稿の核心である「リスク認知の非対称性」です。
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物理的・心理的距離の効果: 人間は、自身から物理的・心理的に遠い場所で起きるリスクを、著しく過小評価する認知バイアスを持っています。ヒグマの脅威に日常的に晒されていない都市部の住民にとって、ヒグマは動物園やドキュメンタリーで見る「愛らしい」「雄大な」存在であり、その捕食者としての本質は抽象的な知識に留まります。一方で、現地住民にとってヒグマは、生命と財産を脅かす具体的な脅威です。この距離が、共感の対象を「ヒグマ」に向かわせるか、「住民」に向かわせるかの分岐点となります。
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感情 vs. 統計の非対称性: 人々の判断は、冷徹な統計データよりも、感情に訴える具体的な物語に強く影響されます。ヒグマによる死亡者数が過去60年間で59人にのぼるという事実(朝日新聞デジタル 2013年7月12日)よりも、「一頭のクマが殺された」というストーリーの方が、個人の感情を揺さぶりやすいのです。この「特定可能な被害者効果」が、統計的なリスクを無視し、感情的な反応を優先させる原因となります。
これらの認知バイアスが組み合わさることで、「安全な場所からの善意」が、結果として現地の恐怖を軽視し、対応に追われる人々を疲弊させるという、意図せざる有害な結果を生み出すのです。
4. 結論:分断を乗り越え、真の「共存」を目指すために
北海道福島町の悲劇と、その後に続いた社会の混乱は、私たちに野生動物との関係性を根本から問い直すことを迫っています。感情的な非難の応酬から脱却し、建設的な未来を築くために、私たちは何をすべきでしょうか。
専門家が指摘するように、「行政をあげて取り組む姿勢が大事」(HTB北海道ニュース)であることは言うまでもありません。しかし、それは行政だけの責任ではなく、社会全体で取り組むべき課題です。
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科学的知見に基づくリスクコミュニケーションの徹底: 行政や専門家は、なぜ駆除という最終手段に至ったのか、その背景にある個体の危険性評価や生態学的根拠を、データを用いて粘り強く社会に説明する責務があります。感情論に対して感情論で返すのではなく、客観的な事実で対話の土俵を整えることが不可欠です。
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ゾーニング(棲み分け)管理の推進: 人間の生活圏と野生動物の生息域を明確に区分する「ゾーニング」の考え方を社会全体で共有する必要があります。都市部や集落に侵入し、人身への危険性が極めて高いと判断された個体への対応は、奥山で暮らす個体への対応とは明確に区別されなければなりません。これは、人間と野生動物、双方の不幸を最小化するための知恵です。
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「共存」の再定義と教育: 私たちが目指すべき「共存」とは、無防備な「共生」や擬人化された「友好」ではありません。それは、互いの領域を尊重し、適切な距離を保ち、予測不可能な危険性を常に認識する、緊張感を伴った「棲み分け」です。この現実を、特にリスクから遠い都市部の住民に向けて、教育やメディアを通じて伝えていく必要があります。
「ヒグマがかわいそう」と感じる心そのものは、生命を慈しむ尊い感情であり、否定されるべきではありません。しかし、その感情は、すぐ隣で恐怖に震える人々の痛みへの想像力と、複雑な現実を解き明かそうとする科学的知見への敬意によって補完されるべきです。
この悲しい分断を乗り越える道は、一方の正義が他方を断罪することなく、互いの立場と、その背景にある構造を理解しようと努める冷静な対話から始まります。福島町の犠牲を無駄にしないために、今こそ私たち一人ひとりが、この重い問いに向き合う時です。
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