2025年8月27日
私たちは今、北海道の広大な自然と、そこに息づくヒグマとの共存という、極めてデリケートかつ喫緊の課題に直面しています。人里への出没、農作物への甚大な被害、そして悲劇的な人身事故の発生は、地域社会に深い不安をもたらし、人間とヒグマの間の「あつれき」を増幅させています。本稿は、2025年8月24日に札幌市で開催された「ヒグマをもっと知ろう」シンポジウムの内容を深化させ、ヒグマの複雑な生態、特にその「肉食のチャンス」への適応性、そして人間を襲うメカニズムを科学的に解剖します。その上で、被害をゼロに近づけ、人間とヒグマの「あつれき」を最小限に抑えるための「問題個体」への確実な対応策と、持続可能な共生社会の実現に向けた道筋を、専門的な視点から詳細に論じます。
結論として、ヒグマとの共生は「問題個体」の科学的かつ倫理的な特定と確実な排除を基盤としつつ、それ以上に、ヒグマの生態への深い理解に基づく予防策の徹底と、地域社会全体での意識変革によって「あつれき」をゼロに近づけることが、被害ゼロ社会実現の鍵となります。
ヒグマの生態学的実像：「草食に近い雑食性」と「肉食のチャンス」への適応
シンポジウムで、北海道大学の坪田敏男教授が明かした知床のヒグマの食性に関する知見は、一般に流布する「獰猛な肉食動物」というイメージを覆すものでした。調査によれば、知床のヒグマの8～9割は植物、特に草本類を主食としており、これは「草食に近い雑食性」と表現するのが適切です。 これは、ヒグマが環境の変化や季節に応じて、利用可能な食物資源を最大限に活用する高度な適応能力を持つことを示唆しています。彼らの食性は、低カロリーでも量が多く摂取できる植物資源に依存する一方、栄養価の高い動物性タンパク質を効率的に獲得する能力も併せ持っています。
しかし、坪田教授が強調された「肉食のチャンスがあれば肉食に行ってしまう、（ヒグマは）そういう動物だと思います」という言葉は、この生態のもう一つの側面を浮き彫りにします。これは、ヒグマが単なる植物食者ではなく、機会があれば積極的に捕食行動をとる、高度な捕食者としての潜在能力を常に保持していることを意味します。特に、栄養価が低くなりがちな植物食だけでは生存に必要なエネルギーを十分に賄えない時期（例：晩夏から秋にかけての脂肪蓄積期、あるいは不作の年）や、遭遇した獲物が幼獣であったり、病気などで衰弱していたりする場合、ヒグマはその捕食者としての側面を顕著に発揮します。これは、彼らが自然界の食物連鎖において、多様なニッチを埋める柔軟な戦略を持つ生物であることを示しています。
人間を襲うメカニズム：「偶然の遭遇」とヒグマの「驚愕反応」
ヒグマによる人的被害の主要因として、坪田教授が指摘された「一番多いのは偶然出くわしてしまって、クマもびっくりして人を襲う」というメカニズムは、極めて重要です。これは、人間がヒグマの生息域、特に彼らが採食や休息のために利用する深部や、季節的な移動ルートに無防備に侵入することによって発生します。ヒグマは通常、人間を避ける傾向にありますが、不意に遭遇した場合、彼らもまた人間を「脅威」と認識し、防御的な攻撃行動をとることがあります。
この「驚愕反応」は、ヒグマの視覚や聴覚が人間ほど鋭敏ではないという側面も関係しています。十分な距離があれば、彼らは人間を認識し回避できますが、至近距離での予期せぬ遭遇は、彼らに逃避する時間的猶予を与えず、即座の攻撃行動を誘発する可能性があります。8月14日に知床の羅臼岳で発生した登山者男性の悲劇も、このような偶発的かつ近距離での遭遇が、ヒグマの「驚愕反応」を引き起こした可能性が極めて高いと考えられます。これは、人間側の行動が、ヒグマの生態系における「驚き」の要因となりうることを示唆しています。
「問題個体」の確実な捕殺と「あつれき」ゼロへの科学的アプローチ
ヒグマによる被害を根絶するためには、「問題個体」、すなわち人里への出没を繰り返し、地域住民に危害を加える可能性の高い個体への確実な対応が不可欠です。8月1日、北海道砂川市で捕獲された体長約2.3メートル、体重250キロの雄のヒグマの事例は、こうした個体がいかに地域社会に脅威を与えるかを示しています。これらの個体は、飢餓、高齢による狩猟能力の低下、または人間が残した食物（廃棄物など）への依存が原因で、本来の生息圏を離れてしまうことがあります。
しかし、こうした「確実な捕殺」は、しばしばヒグマ全体への否定的な感情や、さらなる「あつれき」を生み出す温床となり得ます。ここで重要なのは、「問題個体」の特定と排除を、科学的根拠に基づき、かつ倫理的な配慮を伴って行うことです。 これには、以下のような複合的なアプローチが求められます。
- 高度な個体識別技術の活用: DNA鑑定、GPSトラッキング、行動パターン分析などを駆使し、人身被害や農作物被害に直接的に関与した個体を正確に特定します。これにより、不必要な個体の駆除を防ぎ、資源の効率的な運用を可能にします。
- 捕獲・移送・安楽死の判断基準の精緻化: 単なる出没頻度だけでなく、個体の健康状態、年齢、学習性（人間を恐れない、餌場を学習しているか）などを総合的に評価し、捕殺以外の選択肢（例：遠隔地への移送、保護施設での管理）も検討します。ただし、移送が新たな「問題個体」を生み出す可能性も否定できず、慎重な判断が必要です。
- 人間とヒグマの生息圏の分離強化: 人間側のインフラ整備（電気柵の高度化、廃棄物管理の徹底）、ヒグマの自然な生息環境の保全・回復、そして人間活動がヒグマの行動に与える影響の最小化といった、根本的な対策を並行して実施します。
- 地域住民、研究者、行政、猟友会の連携: 専門知識の共有、情報交換の円滑化、そして共同での意思決定プロセスを構築することで、地域の実情に即した、より効果的かつ合意形成の取れた個体管理を実現します。
共存社会の実現へ：市民一人ひとりが担う「あつれき」ゼロへの役割
ヒグマとの「あつれき」をゼロに近づけ、被害をなくすためには、市民一人ひとりの意識と行動が極めて重要です。坪田教授が提唱された基本的ながらも効果的な対策は、その最たるものです。
- 「山に入る際は鈴を持って入る」: これは、ヒグマに人間が接近していることを事前に知らせ、彼らが自ら回避する機会を与えるための最も基本的な、そして物理的な「通知」手段です。音による早期探知は、不意の遭遇による「驚愕反応」を劇的に低減させます。
- 「山に入ったら周りの気配に常に気を配り、クマがいないかを感じ取る」: これは、単なる聴覚だけでなく、視覚、嗅覚、さらには第六感とも言える「気配」を研ぎ澄ませることを意味します。ヒグマの痕跡（足跡、糞、食痕）に注意を払い、彼らの行動圏を推測する能力を養うことは、リスク管理の基本です。
これらに加えて、以下の点も重要です。
- 食物誘引源の徹底排除: 家庭やキャンプ場周辺の生ゴミ、果実、ペットフードなど、ヒグマを誘引する可能性のあるものを野外に放置しないことは、ヒグマが人里に依存する行動様式を学習する機会を奪う上で不可欠です。
- ヒグマの生息地への敬意: ヒグマの生息域では、彼らの行動を妨げないような、静かで、かつ痕跡を残さない行動を心がけることが求められます。
- 情報リテラシーの向上: ヒグマに関する正確な情報を、科学的根拠に基づいて理解し、不確かな情報や感情論に流されないことが、冷静な共存への第一歩です。
まとめ：科学的理解と共感に基づく、未来への歩み
「ヒグマをもっと知ろう」シンポジウムは、ヒグマの複雑な生態と、人間との共存という課題に対する理解を深める貴重な機会でした。ヒグマが「肉食のチャンスがあれば」その能力を発揮する一方で、その食性の大部分を植物が占め、人間を襲うケースの多くが「偶然の遭遇」に起因するという事実は、我々がヒグマを一方的に「恐れる」対象としてではなく、その生態を深く「理解する」対象として捉えるべきであることを示唆しています。
「問題個体」への確実な対応は、地域社会の安全確保のために避けられませんが、それは同時に、ヒグマという野生動物の生息環境への配慮、そして生態系全体への影響を考慮した、科学的かつ倫理的な判断が求められる、極めて繊細なプロセスです。
2025年8月27日、我々は、ヒグマとの「あつれき」をゼロにし、被害をなくすための道のりを、さらに深く、より科学的に、そして何よりも人間と野生動物双方への深い共感をもって歩み続ける必要があります。そのためには、市民一人ひとりが、ヒグマの生態を学び、適切な予防策を講じ、そして「問題個体」への対応についても、冷静かつ建設的な議論を継続していくことが、私たちが目指すべき「被害ゼロ」と「共存」という未来への鍵となるでしょう。これは、単なる行政や専門家の課題ではなく、地域社会全体で取り組むべき、人類と自然の調和に向けた壮大な挑戦なのです。
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