「進撃の巨人」は、その比類なき物語構造と倫理的ジレンマで、現代のフィクションにおいて最も議論を呼ぶ作品の一つであり続けている。連載完結から数年を経た今もなお、ファンの間で最も熱く、そして深遠な謎として議論されているのが、主人公エレン・イェーガーが未来の記憶、すなわち自身が引き起こす「地鳴らし」による破滅的な未来を知りながら、なぜそれを「変えようとしなかった」のか、という点である。本記事では、この難問に対し、心理学、哲学、そしてSFにおける「決定論」や「自由意志」といった専門的観点から多角的に深掘りし、エレンの行動原理の核心に迫る。結論から言えば、エレンは未来を知ったからこそ、それを「変えようとしなかった」のではなく、未来の記憶を通じて「変えられない」ことを悟り、その上で自己の目的達成のために「変えるべきではない」と至った、極めて複雑かつ重層的な決断を下したのである。
1. 導入:未来の記憶の「性質」とエレンの初期葛藤
エレンが未来の記憶を垣間見る能力を得たのは、父グリシャ・イェーガーから「進撃の巨人」と「始祖の巨人」の力を継承する際、未来の自分自身からの「座標」という形でその記憶を「見せられた」ことによる。これは単なる「予知」ではなく、未来の自己が過去の自己に「情報」として伝達した、極めて特殊な現象である。ここで重要なのは、この記憶が「可能性」として提示されたのか、それとも「確定した事実」として提示されたのかという点である。
初期のエレンは、この未来の記憶に激しく動揺し、それを回避しようと試みた形跡も見られる。しかし、物語の進行と共に、彼の態度は変化していく。この変化は、彼が未来の記憶の「本質」を理解し、それに囚われるのではなく、むしろそれを自身の行動原理の基盤として再構築していった結果と解釈できる。
2. 専門的視点からの深掘り:未来の記憶と「運命の不可避性」
2.1. 運命論(Determinism)と「確定した未来」のパラドックス
エレンが未来を「変えようとしなかった」理由を考察する上で、哲学における「運命論(Determinism)」の概念は不可欠である。運命論とは、全ての事象は、その先行する原因によって必然的に決定されており、自由意志による変更は不可能であるという考え方である。
「進撃の巨人」の世界観は、この運命論的な側面を強く内包している。エレンが未来の記憶を受け取った際、「知ることは出来ても、変えることは出来ひんのじゃなかった?」というフレーズは、この運命論的な制約を示唆している。これは、彼が未来の出来事を知ったとしても、その出来事の発生を阻止するための因果関係を断ち切ることができない、あるいは、彼がどのような選択をしたとしても、最終的に「地鳴らし」へと繋がる道が必然的に用意されていた、と解釈できる。
SF作品や哲学論においても、「タイムトラベル」や「未来予知」のパラドックスは頻繁に議論される。例えば、未来の自分に会いに行って、未来の自分が何らかの行動をしないように説得しようとした場合、その説得自体が未来の自分にとって「未来の記憶」となり、むしろその行動を「確実」なものにしてしまう、という「因果のループ」である。エレンのケースもこれに似ており、未来の記憶を受け取ったことが、むしろその未来を「確定」させる一因となった可能性が考えられる。
2.2. 「最善の道」の計算:功利主義的思考と「巨人のいない世界」
「何回も試した結果、一番良かったのがあの結末や」というエレンの言葉は、彼の行動が単なる運命への諦めではなく、高度な「計算」に基づいたものであることを示唆している。ここには、功利主義的な思考、すなわち「最大多数の最大幸福」を目指す倫理観が垣間見える。
エレンが目指したのは、文字通りの「巨人のいない世界」であり、それによってエルディア人の絶滅という最悪のシナリオを回避することだった。彼は、未来の記憶を通じて、たとえ「地鳴らし」という非人道的な手段を用いなかったとしても、いずれエルディア人は世界中の敵意によって滅ぼされるか、あるいは別の形での悲劇が繰り返されることを知っていたのだろう。
例えば、「巨人のいない世界」という目的を達成するために、彼は様々な「可能性」をシミュレートしたと推測できる。そのシミュレーションの結果、たとえ8割の世界人口を犠牲にするという、倫理的に極めて許容しがたい結果であっても、それが「エルディア人の存続」と「真の平和への一歩」という、より大きな目的を達成するための「最小の犠牲」である、と彼自身が判断したのである。この判断は、SFにおける「トロッコ問題」のような倫理的ジレンマにも通じる。エレンは、自らの手で「トロッコ」を切り替えるという、極めて困難で罪深い選択を、未来の記憶という「知識」に基づいて下したと言える。
2.3. 「自由」の定義と「檻」からの解放:実存主義的アプローチ
エレンの究極の目標が「自由」であることは、物語の根幹をなすテーマである。彼は、壁の中で育った人々、そして巨人や他国からの脅威に晒されるエルディア人全体が、見えない「檻」に囚われていると感じていた。
実存主義哲学は、人間の存在は本質に先立つとし、人間は自らの選択によって自己を形成していくと説く。エレンは、未来の記憶を通じて、その「檻」を破壊し、後世の人々に「選択の自由」を与えるための唯一の方法が「地鳴らし」であると悟った。これは、彼が「自由」の定義を、単に個人的な解放ではなく、他者(未来世代)への「自由の付与」にまで拡張したことを意味する。
彼が「自由」を獲得するために、「地鳴らし」という手段を選んだのは、彼が「自由」という概念を、単なる状況からの逃避ではなく、責任を伴う能動的な創造行為として理解していたからに他ならない。彼にとって、「地鳴らし」は、その「自由」という名の、極めて過酷ではあるが、唯一到達可能な「大地」への道だったのだ。未来の記憶は、彼に「自由」の場所を示し、その場所への「道」が「地鳴らし」であったという「知識」を与えた。そして、その知識に基づき、彼は「自由」という目的を、自らの手で実現することを選んだのである。
3. 多角的な分析と洞察:エレンの行動原理の再解釈
3.1. 「自由意志」か「決定された行動」か:パラドックスの深化
エレンの行動は、現代哲学における「自由意志」と「決定論」の長年の論争を想起させる。彼は未来を知りながら、その未来へと突き進んだ。これは、自由意志が失われた結果なのか、それとも自由意志の発露として「その道」を選んだのか。
本記事の視点からは、エレンは「未来の記憶」という「外部からの情報」と、自身の「自由意志」を高度に融合させた行動をとったと解釈できる。彼は、未来の記憶という「条件」の下で、自らの「意志」をもって「地鳴らし」という「行動」を選択した。これは、自由意志が決定論と両立しうるという「両立論(Compatibilism)」の立場に近い。
「何回も試した結果、一番良かったのがあの結末や」という言葉は、彼が「もし違う選択をしたらどうなるか」という「可能性」を、未来の記憶という「情報」を元に、あたかもシミュレーションのように行ったことを示唆している。このシミュレーションの結果、最悪のシナリオ(エルディア人の絶滅)を回避し、かつ「巨人のいない世界」という目的を達成するための「最善の道」として「地鳴らし」を「選択」した、と考えるのが最も整合的である。
3.2. 目的論的因果関係と「始祖の巨人」の特殊性
「進撃の巨人」における「座標」や「始祖の巨人」の力は、因果関係を歪める、あるいは時間軸を超えて作用する特殊なメカニズムを持っている。未来の記憶が過去の自分に影響を与える、という構造は、純粋な線形時間軸の因果関係とは異なる「目的論的因果関係(Teleological Causality)」とも言える。これは、目的(未来の自分)が原因となって、過去の行動(記憶の伝達)を規定するという考え方である。
エレンが未来を知りながら「変えようとしなかった」のは、この「目的論的因果関係」の中で、彼自身が「目的」を「地鳴らし」に定めた結果である。彼は、未来の自分から「地鳴らし」という「目的」を受け取った。そして、その目的を達成するために、過去(現在)の自分は「地鳴らし」へと向かう行動をとる、と「自己決定」したのである。
3.3. 「知識」と「行動」の倫理的ジレンマ:ナチスドイツのホロコーストとの比較可能性
エレンの「地鳴らし」は、その規模と非人道性から、歴史上の悲劇、特にナチスドイツによるホロコーストなどの集団的暴力と比較されることがある。もちろん、作品内での「エルディア人」と「マーレ」の関係性は、現実に存在する民族間の対立とは単純に比較できない複雑さを持つ。
しかし、エレンの行動原理を考察する上で、「知識」が「行動」に与える影響、そしてその倫理的責任という観点からは、示唆に富む。もし、ある集団が、自らの存続のために、敵対する集団を絶滅させることが「唯一の道」であると「知識」として得たと仮定した場合、その集団はどのような倫理的判断を下すのだろうか。エレンは、まさにこの極限の倫理的ジレンマに直面し、自らの「知識」に基づいて、極めて非人道的な「行動」を選択した。その選択の背後には、人類史上繰り返されてきた集団的暴力の根源にある、恐怖、生存への執着、そして「敵」への憎悪といった感情が、増幅された形で存在していたと推測できる。
4. 結論:エレンの選択の重みと「進撃の巨人」が問うもの
エレン・イェーガーが未来を知りながらも、その道を進んだ理由は、単なる無力感や諦め、あるいは狂気からではない。それは、未来の記憶という「絶対的な知識」に基づき、自らの「目的(巨人のいない世界、自由)」と「倫理観(最小の犠牲で最大の目的を達成)」を高度に統合した結果、下された、極めて計算され尽くした「決断」であった。彼は、未来を変えようとしなかったのではなく、「未来の記憶」が示す「結果」に照らし合わせ、「変えるべきではない」、あるいは「変えられない」と判断し、その上で自らの意志で「地鳴らし」という「目的達成の手段」を選択したのである。
「進撃の巨人」は、このエレンの選択を通して、私たちに「自由」とは何か、「平和」とは何か、そしてそのために払われるべき「代償」とは何か、という、時代を超えた重い問いを投げかけ続けている。未来を知るという能力が、必ずしも幸福や平和をもたらすとは限らない。むしろ、その知識は、より過酷で、倫理的に許容しがたい選択を迫ることもある。エレンの「選ばなかった道」ではなく、「選んだ道」の先にあった、あの壮絶な結末は、読者一人ひとりに、何が「正しい」選択なのか、そして「正しさ」とは一体何なのかを、徹底的に考えさせる、まさに「進撃の巨人」最大の、そして最も本質的な魅力と言えるだろう。この深遠なテーマは、今後も多くの人々の間で語り継がれ、新たな解釈を生み出し続けるに違いない。
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