はじめに:現代社会が直面する「規範の摩擦」
2025年7月、人気漫画『ダンジョン飯』のキャラクター「マルシル・ドナトー」のコスプレ姿でバーベキュー(BBQ)を楽しむ動画を公開したコスプレイヤー「鹿乃つの」氏が、インターネット上で再び大規模な議論を巻き起こしました。この騒動は、単なる個人の行動規範の是非に留まらず、現代社会における「公共空間での表現の自由」と、特定のコミュニティ内に醸成された「暗黙の了解」や社会的一般常識との深刻な摩擦を浮き彫りにしています。特に、インターネットという増幅装置がこの摩擦を加速させ、対立を激化させるメカニズムは、多様な価値観が共存する社会における「規範のあり方」と「対話の可能性」について、本質的な問いを投げかけています。本稿では、この騒動を多角的な専門的視点から深掘りし、その背景にある社会現象を分析します。
騒動の経緯と「炎上」の反復性:デジタルエコシステムにおける可視化と再文脈化
今回の騒動は、コスプレイヤー鹿乃つの氏が2025年7月26日に自身のX(旧ツイッター)アカウントで公開したBBQでのコスプレ動画が発端となりました。動画では、『ダンジョン飯』のマルシル・ドナトーに扮し、アウトドア活動を楽しむ様子が映されていたと報じられています。
鹿乃氏は過去にも、今年4月に開催された大阪万博関連イベントでのコスプレが物議を醸した経緯があり、その際も『ダンジョン飯』のマルシル・ドナトーのコスプレであることが確認されています。この反復性は、鹿乃氏の行動が意図的であるか否かに関わらず、彼女が公共の場でのコスプレというテーマにおいて、継続的に社会的な注目と議論を喚起するトリガーとなっていることを示唆しています。これは、個人の行動がインターネットを通じて瞬時に公共化され、過去の経緯と結びつけられ、時に過剰な再文脈化(re-contextualization)がなされる現代のデジタルエコシステムの一側面と言えるでしょう。個人のオンライン上での足跡(デジタルタトゥー)は不可逆であり、それが新たな炎上の燃料となる構造が見て取れます。
ネット世論の二極化:社会規範と表現の自由の衝突点
鹿乃氏のBBQ動画に対し、インターネット上では激しい賛否両論が巻き起こりました。この議論の構図は、現代社会における二つの重要な価値観、すなわち「社会規範・マナー」と「個人の表現の自由」の衝突を鮮明に示しており、冒頭で述べた「規範の摩擦」がどのように表面化するかを具体的に示しています。
批判側の論理:サブカルチャーにおける「内部規範(ハビトゥス)」の形成と維持
批判的な意見の多くは、コスプレ文化内部に長年培われてきた「暗黙の了解」や「非公式な倫理的コード」を根拠としています。これは、社会学におけるピエール・ブルデューの「ハビトゥス(habitus)」の概念にも通じます。ハビトゥスとは、ある集団内で共有される思考、知覚、行動の性向の体系であり、明文化されていなくとも、その集団の成員に強く影響を与えます。コスプレコミュニティにおけるハビトゥスは、以下の要素で構成されていると分析できます。
- 「原作の世界観とキャラクターイメージの尊重(キャラクター倫理)」: コスプレイヤーは単に仮装するだけでなく、キャラクターの「人格」や「世界観」を体現する、という意識が根底にあります。TPO(時と場所、場合に応じた振る舞い)の逸脱は、キャラクターや原作への「冒涜」と捉えられかねないという倫理観です。これは、特定の作品やキャラクターに深い愛着を持つファンコミュニティ特有の強い規範意識であり、ファンダムにおける「共有された理想像」を逸脱する者への非難として現れます。
- 「コスプレ活動の場の限定性(空間的・文脈的限定)」: 批判派は、コスプレが許容されるのは原則として「イベント会場」「撮影スタジオ」など、許可され管理された空間に限られるべきだという見解を強く持っています。これは、コスプレ文化が社会的に認知される過程で、「非日常性」の演出と「一般社会との摩擦回避」というバランス点を探ってきた歴史的経緯を反映しています。公共の場所での唐突なコスプレは、非コスプレイヤー(一般市民)に不快感を与えたり、混乱を招いたり、あるいはプライバシー侵害と見なされたりする可能性があるという、他者への配慮が根底にあります。
- 「デジタル空間における配慮:検索避けとミュートワード(デジタルマナー)」: インターネット、特にSNSの普及は、コスプレ活動を瞬時に広範な人々に可視化させました。これにより、意図せず非ファン層の目に触れるリスクが増大し、新たな「デジタルマナー」として「検索避け」や「ミュートワード」といった情報フィルタリング技術を用いた配慮が求められるようになりました。これは、特定の趣味が拡散されることで生じる「迷惑性」を自律的に抑制しようとする試みであり、コミュニティの自己防衛機能とも解釈できます。
これらの批判は、コスプレが単なる個人の趣味を超え、他者との共存や、作品・キャラクターへのリスペクトという、コミュニティ維持のための共同幻想としての側面を強く持っていることを示しています。
擁護・疑問側の論理:「表現の自由」の原理と「規範の相対性」
一方で、鹿乃氏の行動を擁護したり、批判そのものに疑問を呈したりする声も多数見受けられました。これは、日本国憲法が保障する「表現の自由(第21条)」という普遍的権利と、社会規範の相対性を強く意識した視点からの反論であり、冒頭で提示した「規範の摩擦」のもう一方の側面です。
- 「個人の自由の範疇」: 擁護派は、特定の行動が法的に禁止されていない限り、個人の自由な表現として尊重されるべきだと主張します。BBQというレクリエーション活動とコスプレを組み合わせることが、具体的に誰にどのような実害を与えるのか、その因果関係が不明確であるという批判です。彼らは、個人の趣味活動への過度な干渉は、社会全体の「息苦しさ」に繋がると警鐘を鳴らします。
- 「規範の曖昧性と主観性」: 批判の根拠となっている「TPO」「マナー」「常識」「暗黙の了解」といった概念は、法のように明文化されたものではなく、個々人の価値観や育った環境によって解釈が異なります。擁護派は、これらを「あなたの感想に過ぎない」と切り捨て、不明確な主観的規範によって他者の自由を制限しようとすることの不当性を指摘します。これは、社会規範が「客観的」であるか「主観的」であるか、そしてその強制力がいかにあるべきかという、社会学や法哲学における根源的な問いを提起しています。
- 「インターネット炎上の構造的暴力(キャンセルカルチャー)」: 「大規模な集団いじめ」「キャンセルカルチャー」といった批判は、インターネット上での批判が時に過剰な攻撃となり、個人の尊厳を傷つけ、社会的な排除をもたらす可能性を指摘しています。これは、デジタル化された社会における「世論形成」と「集合的リンチ」の境界線が曖昧になっている現状への警鐘であり、批判的言論の自由と、個人の権利保護のバランスを問うものです。
これらの意見は、個人の行動を制約するルールが、どこまで「明確な根拠」に基づいているべきか、そして「公共の福祉」とは具体的に何を指すのかという点を論点にしています。
鹿乃つの氏の反論:「因習村」批判と規範の明文化要求の正当性
批判の声に対し、鹿乃氏本人はX上で「いやどこにその法律やなんかがあるんですか?」「明文化されてない禁忌を破ったらクッソ叩かれて当然で~~~すってまさに因習村(※伝統や慣習が強く意識され、暗黙の了解が重視されがちな環境のこと)のそれすぎる」と反論しました。この主張は、今回の議論の核心である「規範の摩擦」を直接的に指し示しており、極めて本質的です。
鹿乃氏のこの反論は、法学における「法の支配」の原則、すなわち、法は明確に定められ、公にされ、全ての者に適用されるべきだという思想に連なります。明文化されない規範は、「ソフトロー(soft law)」として、法的拘束力はないものの一定の行動指針となる場合があります。しかし、その解釈や適用範囲が曖昧であるため、個人の恣意的な判断によって逸脱者を非難するツールと化す危険性も孕んでいます。鹿乃氏が指摘する「明文化されていない」という点は、その規範の正当性や強制力に対する根本的な疑問を呈していると言えます。
また、「因習村」という比喩は、社会学的には、閉鎖的な「共同体(Gemeinschaft)」における同調圧力や集合的記憶の負の側面を強く示唆しています。コミュニティ内部で自然発生的に形成された規範が、明文化されないまま外部の人間、あるいはその規範を知らない/同意しない人間に強制されることは、「因習」として、閉鎖的な集団特有の同調圧力や排他性、不寛容さを生み出す危険性があるという主張です。この視点は、コスプレ界隈のようなサブカルチャーコミュニティが、いかにして内部規範を形成し、維持してきたかという歴史的背景にも関わります。初期のコスプレは、非公式かつ限定的な空間で行われる「趣味」であり、自己防衛的に「外部に迷惑をかけない」という暗黙のルールが形成されました。しかし、インターネットの普及とコスプレ文化の社会的な認知度向上により、その活動は「公共の場」にも進出し、内部規範と外部社会の規範との間で齟齬が生じるようになったと言えるでしょう。この齟齬こそが、今回の炎上の根本原因の一つであり、冒頭で提示した「規範の摩擦」が具体的な形で顕在化したものです。
アウトドア・BBQという空間の特性と「マナーの曖昧性」:公共空間利用の課題
今回の騒動の舞台となったBBQは、多くの場合、公園やキャンプ場といった公共のスペース、あるいはそれに準じる場所で行われます。このような空間は、多様な目的を持った人々が利用する「開かれた公共空間」です。ここでの課題は、冒頭で述べた「規範の摩擦」が、具体的な空間の文脈でどのように機能するかという点にあります。
アウトドア活動において一般的に求められるマナーは、「周囲の利用者への配慮」という包括的な原則に基づいています。具体的には、騒音の制限、ゴミの適切な処理、火気の安全管理、他の利用者のプライバシー侵害の回避などが挙げられます。しかし、コスプレという行為がこれらの一般的なマナーに直接的に抵触するかどうかは、その状況、周囲の受け止め方、そして何よりも「視認性」と「文脈」、さらには「公共の場の許容範囲」に強く依存します。
例えば、過度に露出の多い衣装や、周囲を威嚇するようなキャラクターのコスプレ、あるいは大人数が占有するような行動は、公共空間における「秩序」や「快適性」を損なう可能性があります。しかし、今回の「マルシル」コスプレは、キャラクターの特性上、そうした要素が強くなく、純粋な「非日常的な装い」と認識された可能性が高いでしょう。
BBQという活動自体が、日常生活から離れた「レクリエーション」や「非日常」の要素を強く含んでいます。このような場では、ある程度の「寛容性」が期待されることも少なくありません。例えば、仮装パーティーや特定のイベントではない「通常のBBQ」の場で、コスプレがその場の雰囲気を損ねるか、あるいはむしろ個性的なアクセントとして受け入れられるかという評価は、個人の感覚に委ねられる部分が大きく、客観的なマナー違反の基準を設けることが困難であるという曖昧性を内包しています。
結論:公共性と表現の自由の調和へ向かう対話の必要性
鹿乃つの氏の「ダンジョン飯」コスプレを巡る一連の騒動は、現代社会における「公共空間における表現の自由の限界」と「特定のコミュニティにおける内発的規範の限界」という二重の課題を浮き彫りにしました。この問題は、コスプレという特定のサブカルチャーに限定されるものではなく、全ての表現活動が公共の場で試される際に生じうる普遍的な摩擦であると言えます。これは冒頭で提示した「規範の摩擦」が、個人の行動を通じて社会全体に問いを投げかけた形です。
「暗黙の了解」が機能するコミュニティ内では、それが円滑な人間関係を築く上で有効な社会資本となり得ます。しかし、そのコミュニティがインターネットを通じて外部社会と接続され、多様な価値観が流入するにつれて、明文化されていない規範は「因習」として批判の対象となり、その強制力は失われかねません。現代社会においては、明確な法規制がない中で、どこまでが個人の自由であり、どこからが他者への配慮や社会的なマナーとして求められるのかという線引きは、常に流動的であり、静的な答えを出すことは困難です。
この複雑な状況を乗り越えるためには、以下の視点が不可欠です。
- 規範の「明文化」と「透明性」の追求: コミュニティ内での重要なマナーやルールは、可能な限り明文化し、その根拠や目的を共有することで、内部・外部からの理解を得やすくなります。これにより、「暗黙の了解」が持つ排他性や不明瞭さを解消し、より健全な規範形成を促進できます。これは、例えば特定の公共施設やイベントでのコスプレガイドライン策定といった形で実践され得るでしょう。
- 「表現の自由」と「公共の福祉」のバランス点模索: 表現の自由は尊重されるべきですが、それが「公共の福祉」に抵触しない範囲であるという原則も重要です。ここでいう「公共の福祉」とは、抽象的な概念ではなく、周囲の安全、平穏、そして他者のプライバシー権や肖像権といった具体的な利益との調和を意味します。このバランス点は、個別の事案ごとに、状況と文脈を考慮した繊細な判断が求められ、一律のルールでは対応しきれない複雑性を伴います。
- 建設的な対話と相互理解の促進: インターネット上での「炎上」は、多くの場合、感情的な攻撃と防御の応酬に終始し、真の対話や相互理解を阻害します。異なる文化や趣味を持つ人々が相互に理解を深め、対話を通じてより良い共存の道を探るためには、「相手の意見の背景にある価値観を理解しようとする姿勢」が不可欠です。これは、単なる多数決や声の大きい少数派の意見ではなく、多角的な視点から問題の本質を捉え、持続可能な共存のモデルを模索する社会全体の課題です。
今回の騒動は、サブカルチャーの公共空間への進出、インターネットが加速する世論の形成、そして現代社会における「常識」や「マナー」の再定義という、複数の社会現象が交錯する重要なケーススタディです。この議論をきっかけに、多様性を包摂し、表現の自由と共存のバランスを探るための、より深化した社会的な対話が始まることを期待します。
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