【チェンソーマン考察】“あのシーン”の魔力：記号的身体性と非言語的支配の卓越した演出

公開日: 2025年07月24日
著者: [あなたの名前] (文化表象研究者 / 専門ライター)

要旨：なぜ我々は“あのシーン”に言葉を失うのか

漫画『チェンソーマン』において、ファンの間で「何がとは言わないけどこのシーンいいよな…」と暗黙の了解で語られる象徴的な場面。本稿はその核心に迫る。結論から言えば、このシーン――特にマキマの身体性を強調する一連の描写――が放つ抗いがたい魅力の源泉は、単なるキャラクターデザインやファンサービスの次元にはない。それは、①作者・藤本タツキの作家性を象徴する「記号的身体性（Symbolic Corporeality）」、②畏怖と魅惑を両立させる「アンビバレント・フェティシズム」、そして③物語の支配構造を読者に追体験させる「非言語的支配のメタ演出」という、三重の高度な芸術的装置によって構築されている。本稿は、この多層的な構造を解き明かし、なぜこのシーンが言語化を拒むほどの強烈な体験を我々に与えるのかを論証する。

1. 「存在」を描くのではない、「意味」を描くのだ――記号的身体性という作家性

一次回答で指摘された「肉感」や「質量」を感じさせる藤本タツキ氏の描画スタイルは、より深く分析すると、単なるリアリズムの追求ではないことがわかる。彼が描くのは、キャラクターの身体がその本質、役割、能力を雄弁に物語る「記号」としての身体である。

問題のシーンで描かれる、スーツに包まれたマキマの後ろ姿の曲線。これは単なる女性的な身体の美しさの表現に留まらない。身体のラインを際立たせるタイトなスーツは「管理」と「束縛」を、寸分の隙もないその着こなしは彼女の「完璧な支配能力」を、そして鑑賞者に背を向けながらも意識をこちらに向けさせる構図は「不可視の全能性」を象徴している。つまり、マキマの身体そのものが「支配」という概念を視覚化した記号（シンボル）として機能しているのだ。

この手法は、例えば建築的・無機的な人体描写で知られる弐瓶勉氏や、生々しい肉体の躍動を描く沙村広明氏とも異なる、藤本タツキ氏独自の作家性を示している。彼の描く身体は、物語のテーマやキャラクターの権力構造を直接的に読者の網膜に刻み込むための、最も効果的な媒体なのである。それは、江戸時代の「見返り美人図」が鑑賞者の視線を一点に引きつけ、絵画空間の奥深さを演出したように、極めて計算された構図と身体表現によって成り立っている。

2. 魅了と畏怖のアンビバレンス：映像的フェティシズムの再定義

『チェンソーマン』の暴力と混沌に満ちた世界観の中で、問題のシーンは異様なまでの「静寂」に包まれている。この「静」と「動」の鮮やかなコントラストが、シーンの魅力を際立たせているのは確かだ。しかし、その魅力の本質は、さらに複雑な感情の二律背反――アンビバレンス――にある。

このシーンが喚起するのは、純粋な性的魅力（エロティシズム）だけではない。むしろ、その美しさと同時に、底知れない不気味さ、触れてはならないという畏怖、そして抗うことのできない恐怖をも感じさせる。この「魅力的だが、同時に恐ろしい」というアンビバレントな感覚こそが、このシーンのフェティシズムを特異なものにしている。それは、マキマというキャラクターが持つ「救済者」と「絶対的支配者」という両義的な性質そのものの視覚的体現に他ならない。

この演出は、映画理論におけるローラ・マルヴィの「男性のまなざし（Male Gaze）」の概念を乗り越える試みとも解釈できる。鑑賞者（＝デンジ）は対象（マキマ）を一方的に見るのではなく、むしろ彼女の存在感によって視線を奪われ、支配される。特に映画館のシーンは象徴的だ。スクリーンを見るマキマを後ろから見るデンジ（読者）という構図は、一見すると鑑賞者が優位に立つように見える。しかし、実際には彼女の存在そのものがスクリーンとなり、我々は彼女という名の映画に釘付けにされる。これは「まなざし」の権力構造が逆転し、鑑賞者が無力化される「支配者のまなざし」のメタ的演出と言えよう。MAPPA制作のアニメ版は、抑制された色彩設計、強調された衣擦れの音、被写界深度を巧みに利用したカメラワークによって、この視線の支配関係とアンビバレントな感覚をさらに増幅させることに成功している。

3. 「何がとは言わない」の構造分析：非言語的支配とファンダムの共犯関係

なぜファンはこのシーンを語る際に「何がとは言わないけど」という、あえて核心をぼかした表現を好むのか。それは単に「言葉にするのが野暮」という情緒的な理由だけではない。この言い回し自体が、作品の根幹をなすテーマと深く結びついている。

a. 非言語的支配の追体験

マキマは物語の中で、言葉を巧みに操り他者を支配する。しかし、読者に対しては、このシーンのように言葉を介さず、純粋な視覚情報だけで直感的な畏怖と魅了を与え、思考を停止させる。これは、彼女の支配のメカニズムを、読者自身が追体験させられている状態に他ならない。「言葉にできない」という感覚は、まさにマキマの支配下に置かれたキャラクターたちの心情とシンクロする、計算された効果なのだ。

b. ファンダムにおける帰属意識の形成

文化論的に見れば、「何がとは言わないけど」というフレーズは、特定の知識や感性を共有する者だけが理解できる「内集団符丁（In-group code）」としての機能を持つ。この符丁を用いる行為は、「私はこの作品の表層的なバイオレンスだけでなく、その奥にある芸術性や演出の意図を理解している」という表明となる。これにより、ファンは自らを「選ばれた鑑賞者」として位置づけ、コミュニティ内での連帯感と帰属意識を強化する。この暗黙の了解こそが、『チェンソーマン』のカルト的な人気を支える文化装置の一つなのである。

結論：言葉を超えた体験を設計する、現代の映像詩

「何がとは言わないけどこのシーンいいよな…」。この一言に集約されるファンの熱狂は、藤本タツキという作家が、漫画というメディアを用いていかに高度な芸術的挑戦を行っているかを証明している。マキマの“あのシーン”は、キャラクターの身体を「記号」として機能させ、魅了と畏怖という「アンビバレントな感情」を誘発し、鑑賞者に「非言語的支配」を体験させる、極めて洗練された演出の結晶体だ。

それは単なる一場面の魅力に留まらず、『チェンソーマン』という作品全体が問いかける「支配とは何か」「救済とは何か」「見ることと見られることの権力関係」といった根源的なテーマを凝縮している。この記事を読み、“あのシーン”を思い出したあなたは、もはや単なる読者ではない。作者が仕掛けた精緻な芸術的トラップの、共犯者の一人なのである。次にページをめくる時、あるいは再生ボタンを押す時、その視線が持つ意味は、以前とは全く異なって見えてくるはずだ。