導入:矛盾の極み、あるいは「理想」の萌芽としてのブチャラティ
レオーネ・アバッキオ、あるいは「ブチャラティ」として親しまれるこのキャラクターは、単なる「正義のギャング」というレッテルを超え、倫理的ジレンマの最前線で「規範」を再構築しようとした実践者である、と結論づけることができます。彼は、裏社会という、社会規範から逸脱した「構造」の中で、自らの内なる「正義」という「規範」を絶対的な指針とし、その矛盾と葛藤を体現しました。本稿では、この「矛盾の輝き」を、社会学、倫理学、そして物語論の視点から深掘りし、ブチャラティの行動原理、その普遍的な魅力、そして現代社会への示唆を専門的に考察します。
1. ギャングスターという「非日常的日常」における倫理的アポリア
ブチャラティが所属する「パッショーネ」は、単なる犯罪組織ではありません。それは、麻薬という「社会悪」を基盤としながらも、その内部で独自の「秩序」と「社会性」を形成していた、一種の「並行社会」と捉えることができます。この文脈におけるブチャラティの「正義」は、既存の法的・道徳的規範(社会規範)とは異なる、特殊な環境下で生成された「局所的規範」であり、その葛藤は、社会学でいう「アノミー(無規範状態)」にも通じる倫理的アポリア(解決不能な倫理的問題)に他なりません。
1.1. 「パッショーネ」という「構造」の二重性
「パッショーネ」は、麻薬の密売という違法行為によって巨万の富と権力を築き上げ、社会に甚大な害悪をもたらしています。これは、 Émile Durkheim が論じた「社会的事実」としての犯罪が、社会の「正常な」一部を形成し、社会連帯の維持にも寄与するという側面を逆説的に示唆しています。しかし、組織内部においては、「組織の秩序維持」「部下への保護」「(ある種の)恩恵の還元」といった、社会的な機能も内包していました。ブチャラティは、この組織の「恩恵」によって救われた過去を持ち、その恩義から、組織への一定の帰属意識も抱いていました。
1.2. 「良心」と「帰属意識」の狭間での選択
ブチャラティは、麻薬という「害悪」そのものに対して、根源的な嫌悪感を抱いていました。これは、彼が「パッショーネ」という組織の「構造」に組み込まれながらも、その「構造」を構成する「行為」そのものに対して、自らの内なる「規範」が異議を唱え続けていたことを意味します。彼の初期の葛藤は、Michael Walzer の「正戦論」における「宣戦布告前の正義(jus ad bellum)」と「交戦中の正義(jus in bello)」の区別にも似ています。組織への帰属(jus ad bellum に類する正当化)はあったかもしれませんが、麻薬の密売という「行為」それ自体に「jus in bello」のような正当性を見出すことは、彼には不可能でした。
1.3. 「ディアボロ」という「権力」への対抗
ブチャラティが「正義」の遂行を決意した背景には、ディアボロという絶対的な「権力」の存在があります。ディアボロは、組織を恐怖と支配によって維持し、その「正義」は、個人の意思を抹殺し、徹底的な管理体制を敷くことにありました。これは、 Michel Foucault が提唱した「権力」の概念、特に、生を管理・統制する「生命権力(biopower)」の暴走とも解釈できます。ブチャラティの「正義」は、このディアボロの「権力」に対する、個人の尊厳と自由意志を守ろうとする、一種の「抵抗」でした。彼は、組織のトップに立つことを目的としたのではなく、組織の「構造」を「浄化」し、その「権力」の行使を「倫理的」な方向へと誘導しようと試みたのです。
2. 「分け与える」という行為に宿る「普遍的優しさ」の萌芽
「ブチャラティは世界一優しくてさぁ薄汚い小僧だった俺に自分のスパゲティを食わせてくれたなぁ〜」という、一見些細なエピソードは、ブチャラティの倫理的営為の根幹をなす、「他者への配慮」という普遍的な価値観を浮き彫りにします。
2.1. 資源配分の「公正性」と「共感」
ギャングという「非日常」において、限られた資源(食料)を、より必要としている(空腹の)他者に分け与える行為は、社会学における「資源配分」の議論に繋がります。ブチャラティの行為は、組織内での力学や地位に基づく配分ではなく、純粋な「必要性」と「共感」に基づいた、一種の「公正な」配分でした。彼は、相手を「薄汚い小僧」という社会的なラベリングで判断するのではなく、その「飢え」という状態に共感し、自らの「満足」よりも他者の「生存」を優先したのです。これは、現代社会における貧困問題や格差社会における、「弱者への支援」という倫理的課題にも通じる示唆を含んでいます。
2.2. 「自己犠牲」に繋がる「共感」の力学
この「分け与える」という行為は、単なる善意に留まらず、ブチャラティの「自己犠牲」の精神の萌芽とも見ることができます。彼が部下や、より弱き者に対して見せた優しさは、しばしば彼自身の命や安全を危険に晒す結果を招きました。しかし、その根底には、他者の苦痛を自己の苦痛として捉える「共感」の深さがあったと考えられます。この「共感」は、倫理学における「功利主義」や「義務論」といった枠組みでは捉えきれない、より根源的な人間性に基づいた行動原理と言えるでしょう。
3. ブチャラティの「正義」が現代社会に投げかける問い
ブチャラティの生き様は、現代社会を生きる私たちに、いくつかの重要な問いを投げかけています。
3.1. 理想と現実の「接続」
私たちは、しばしば「理想」と「現実」の乖離に苦しみ、妥協や諦めを選びがちです。しかし、ブチャラティは、非合法な世界という極めて過酷な「現実」の中で、揺るぎない「理想」を追求し続けました。これは、私たちが、自らの置かれた状況がどれほど困難であっても、心の内に「正義」や「倫理」といった「規範」を持ち続けることの重要性を示唆しています。彼の行動は、社会の「構造」に抗いながらも、その「構造」の中で「より良いあり方」を模索する、「構造化」と「反構造化」のダイナミズムを体現しているとも言えます。
3.2. 「信念」の「実効性」と「限界」
ブチャラティの「信念」は、多くの人々を動かし、物語における「希望」となりました。しかし、彼の「正義」の追求は、多くの犠牲と悲劇も生み出しました。これは、「信念」が持つ「力」と同時に、その「限界」や「代償」についても考えさせられます。現代社会においても、理想を掲げた運動が、思わぬ副作用や分断を生むことがあります。ブチャラティの物語は、私たちが「正義」を語る際に、その「実現可能性」と「潜在的なリスク」を常に考慮することの重要性を教えてくれます。
結論:規範の再構築者としてのブチャラティ、そして我々への課題
レオーネ・アバッキオは、単なる「正義のギャング」という表層的な理解を超え、「非日常的日常」という特殊な「構造」の中で、自らの内なる「規範」を絶対的な指針として「正義」という概念を再構築しようとした、極めて倫理的な実践者でした。彼の「優しさ」は、他者への深い「共感」に裏打ちされた普遍的な価値であり、その「信念」は、理想と現実の狭間で揺れ動く私たちに、揺るぎない指針を与えてくれます。
ブチャラティの物語は、現代社会においても、「社会の構造」と「個人の規範」との関係性、「権力」の在り方、そして「正義」を追求する際の「代償」といった、普遍的かつ根源的な問いを投げかけ続けています。彼の生き様を振り返ることは、私たちが、自らの置かれた状況の中で、いかに「規範」を確立し、いかに「倫理的」な選択をしていくべきか、その羅針盤となるのではないでしょうか。彼の「矛盾の輝き」は、我々自身の「規範」を問い直し、より良い「構造」と「規範」の調和を目指すための、不朽の示唆を与えてくれるのです。


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