夏の太陽が降り注ぐ中、海の恵みを求めて働く人々。その中でも、酸素ボンベを使わず素潜りで海に潜り、海の幸を獲る「海女(あま)」さんの存在は、まさに海のプロフェッショナルとして、私たちに感動と尊敬を与えてくれます。しかし先日、福井の海で、そんなベテランの海女さんたちが命を落とすという、胸が締め付けられるような痛ましい事故が起きました。
この悲劇は、単なる不幸な出来事として片付けられるべきではありません。長年の経験を持つ海のプロフェッショナルであっても、年齢と経験を問わず潜在的なリスクが存在し、特に高齢化が進む社会における労働安全衛生、そして自然との共生における新たな課題を私たちに突きつけています。海は常に予測不能な要素を孕んでおり、その本質的な厳しさに加え、人体の加齢に伴う生理的変化が複合的に作用することで、予期せぬ事態を引き起こす可能性が高いことを示唆しています。本稿では、この痛ましい事故の状況を詳細に分析し、その背景にある専門的な側面を深掘りすることで、私たちがいかに海の計り知れない力に敬意を払い、安全への意識を再構築すべきかを考察します。
1. 真夏の穏やかな海で起きた悲劇の全貌:外部環境と内在的リスクの乖離
この痛ましい事故は、2025年8月1日の午前中に福井県坂井市三国町の安島漁港付近の海で発生しました。
1日午前、坂井市三国町の海でサザエ漁をしていた70代の海女2人が死亡する事故がありました。2人は素潜りで漁をしていたということで、福井海上保安署が事故の原因を詳しく調べています。
引用元: 素潜りでサザエ漁に 70代の海女2人死亡 事故当時の波は穏やか 視界 …
亡くなられたのは、80代の女性と70代の女性のお二人です。サザエの素潜り漁の最中、最初に異変が起きたのは午前8時30分ごろのことでした。
1日午前8時30分頃、福井県坂井市三国町安島の海岸で、80歳代の海女が浮いているのを漁業関係者が見つけて119番。
引用元: サザエの素潜り漁していた海女2人が死亡…福井の海岸
その後、沖合で別の70代の女性も意識不明の状態で発見され、いずれも搬送先の病院で死亡が確認されました。
特筆すべきは、事故当時の海の状況が極めて穏やかであったと報じられている点です。
事故当時の波は穏やか 視界も良好
引用元: 素潜りでサザエ漁に 70代の海女2人死亡 事故当時の波は穏やか 視界 …
この「穏やかな海」という情報こそが、事故の深層を理解するための重要な手掛かりとなります。通常、波の高い荒れた海では物理的な危険が増大しますが、穏やかな海だからこそ、外部環境に起因しない、より内在的な要因が事故の引き金となった可能性が示唆されます。素潜り漁、特に「海女漁」においては、酸素ボンベなどの外部呼吸器を使用しないため、潜水者の呼吸循環器系への負担が極めて大きく、深部に潜るほど水圧による身体への負荷は増大します。
具体的には、潜水中に経験する生理的リスクとして「シャローウォーターブラックアウト(Shallow Water Blackout)」や「潜水性肺水腫(Immersion Pulmonary Edema: IPE)」などが挙げられます。シャローウォーターブラックアウトは、水深が浅くなるにつれて水圧が急減し、血液中の酸素分圧が急激に低下することで意識を失う現象です。特に過呼吸(ハイパーベンチレーション)によって呼吸中枢が刺激されにくくなっている場合にリスクが高まります。一方、潜水性肺水腫は、水圧によって血液が胸部に集中し、肺の毛細血管から液体が漏れ出して肺水腫を引き起こす状態であり、特に加齢による心臓機能や血管弾力性の低下がある場合、リスクが増大すると指摘されています。
穏やかな海という状況は、これらの生理的リスクが水中で顕在化した場合の発見の遅れや、自己救助能力の低下を招いた可能性も否定できません。視界良好であっても、水中で意識を失った場合、速やかに救助されなければ致命的な結果に繋がり得るのです。この点から、この事故は外部環境の厳しさではなく、むしろ個々の潜水者の生理的限界や、潜水活動に内在するリスク、そしてそれらが高齢者に与える影響を深く考察する必要があることを示しています。
2. 数十年の海女歴が語るもの:経験と加齢による生理的変化の交錯
今回の事故で特に衝撃を与えたのは、亡くなられたお二人が「海女歴数十年のベテラン」だったという点です。
サザエの素潜り漁で溺れ海女2人死亡 2人とも海女歴数十年のベテラン
引用元: サザエの素潜り漁で溺れ海女2人死亡 2人とも海女歴数十年の …
「海女漁」とは、ウェットスーツ、水中メガネ、足ひれ(フィン)などの装備は身につけるものの、酸素ボンベなどの潜水器具は一切使用せず、自分の肺に溜めた空気だけで潜水し、海の底でサザエやアワビなどを探し、限られた時間で漁を行うという、極めて過酷な伝統漁法です。この伝統的な漁法は、熟練の技術と並々ならぬ体力、そして何よりも海への深い理解と経験がなければ成り立ちません。
数十年にわたり、荒れた日も穏やかな日も海と向き合い、その危険性を肌で感じてきたはずのベテランの海女さんたち。それでもなお、このような事故が起きてしまうのは、海が持つ予測不可能な厳しさに加え、「加齢」という避けられない生理的変化が大きく影響した可能性を浮き彫りにしています。
専門的な見地から見ると、人間は加齢に伴い、以下のような身体能力の低下が避けられません。
* 肺活量の減少と呼吸器系の機能低下: 加齢により肺の弾力性が失われ、肺活量が減少します。これは、水中で酸素を長く保持する能力に直接影響し、潜水時間や深度の限界を早めます。
* 心血管系の脆弱化: 高齢になると、不整脈、高血圧、動脈硬化などの心血管系疾患のリスクが増加します。潜水時の水圧や運動負荷は心臓に大きな負担をかけ、不測の事態を引き起こす可能性があります。
* 筋力、柔軟性、バランス能力の低下: 潜水活動では、フィンキックによる推進力、水中での体勢維持、岩場での安定した動きなど、全身の筋力とバランスが不可欠です。これらの低下は、いざという時の対応能力を著しく低下させます。
* 反応速度と判断力の低下: 加齢は神経系の伝達速度を遅らせ、とっさの判断や行動に影響を与えることがあります。水中で予期せぬトラブルに遭遇した際、迅速な対処ができないと命に関わります。
* 体温調節能力の低下: 水中では体温が奪われやすく、高齢者は低体温症のリスクが高まります。ウェットスーツを着用していても、長時間の潜水や体力の消耗は体温調節機能を低下させ、身体機能全般に影響を及ぼします。
長年の経験は海の知識や危機察知能力を高めますが、生理的な限界を克服することはできません。むしろ、「これまでの経験で大丈夫だった」という経験則に基づく過信が、自身の身体能力の現実的な変化を見過ごさせるリスクも内包します。伝統漁業における高齢化は、日本社会全体の課題でもあり、伝統技術の継承と同時に、従事者の安全確保という喫緊の課題を突きつけているのです。
3. グループ漁の安全網と限界:バディシステムの再考
今回の漁は、お二人だけで行われていたわけではありません。
5、6人のグループでサザエ漁をしていた海女
引用元: サザエ漁の80代と70代の海女2人が死亡 5、6人のグループで漁の最 …
複数の仲間と一緒に漁をしていた中で、最初の発見者も漁業関係者であり、最初に発見された80代の女性を海中から引き上げたのも、仲間の海女さんでした。
素潜り漁では、お互いの状況を確認し合い、助け合う「バディシステム」(例:登山やダイビングなどで、複数人がペアになってお互いの安全を確保する仕組みのこと)のような連携が非常に重要になります。しかし、この事故ではグループ漁にもかかわらず、お二人の命を救うことができなかった背景には、いくつか専門的な考察が可能です。
- 水中での情報伝達の限界: 水中では視界が限られ、音波以外の直接的なコミュニケーションが困難です。海女漁では、浮上と潜水を繰り返す中で、各人が独立して漁を行う時間帯も長く、常に隣接して行動しているわけではありません。この特性が、異変発生時の迅速な情報共有と対応を遅らせた可能性があります。
- バディシステムの「機能不全」: 形式的なグループ漁であっても、真の意味での「バディシステム」が機能していたかどうかが問われます。バディシステムは、常に相互の状況を監視し、緊急時に即座に介入できる物理的・時間的近接性を前提とします。個々が漁に集中するあまり、相互監視がおろそかになった可能性や、仮に異変に気づいても、その対応が間に合わないほど進行が早かった可能性も考えられます。
- グループ全体の高齢化: 5~6人のグループが全員、あるいはその大半が高齢者であった場合、一人が異変を起こした際に、他のメンバーの救助能力(引き上げ力、心肺蘇生能力など)にも限界があった可能性があります。救助者が同時に心身の疲労や体調不良を抱えていた場合、さらに状況は悪化します。
- ハインリッヒの法則とエラーチェーン: このような事故は、単一の原因で発生することは稀であり、複数の小さなミスや異常、疲労などが連鎖する「エラーチェーン」によって引き起こされることが多いとされます。例えば、わずかな体調不良、漁具の絡まり、想定外の海底地形、そしてグループ内の相互監視のわずかな隙などが重なり、最終的に溺水という結果に至ったのかもしれません。
グループ漁は確かに安全性を高めるための重要な方策ですが、その運用実態と、参加者の身体能力に見合ったものであるかどうかの再評価が不可欠です。
4. 事故原因究明の重要性と科学的アプローチ:「謎」の解明へ
現時点では、なぜこのような事故が起きたのか、具体的な原因はまだ明らかになっていません。福井海上保安署が事故原因の詳しい調査を進めています。
福井海上保安署が事故の原因を詳しく調べています。
引用元: 素潜りでサザエ漁に 70代の海女2人死亡 事故当時の波は穏やか 視界 …
この「謎」を解明するためには、多角的な科学的アプローチが求められます。考えられる可能性としては、以下のような要因が単独で、あるいは複合的に作用した可能性が指摘されます。
- 突発的な健康問題: 最も懸念されるのは、潜水中の突発的な体調急変です。
- 心血管イベント: 心筋梗塞、不整脈、脳卒中など。水圧や運動負荷はこれらを誘発する可能性があります。
- てんかん発作や脳貧血: 過去の病歴がなくても、水圧変化や低酸素状態が引き金となることがあります。
- 低血糖: 特に高齢者では、食事のタイミングや体調によって発症リスクが高まります。
- 潜水生理学的な問題:
- シャローウォーターブラックアウト: 前述の通り、水面浮上直前の意識喪失。
- 過呼吸(ハイパーベンチレーション)の不適切な実施: 潜水時間を延ばそうとして過度に行うことで、二酸化炭素レベルが低下し、脳が低酸素状態に陥っても呼吸を促さない状態となる。
- 潜水性肺水腫(IPE): 高齢者の心肺機能に負担がかかり、肺に水が溜まる状態。
- 環境的要因(微細な変化):
- 予期せぬ海底の地形変化や障害物: 潮流による砂の堆積や崩れ、あるいは漁具の絡まりなど。
- 局所的な潮流や渦: 大局的には穏やかでも、漁場付近で突発的な強い流れが発生した可能性。
- 水温の急変: 水温躍層(サーモクライン)の通過による体温低下、あるいは体への負担。
- 人的要因:
- 疲労蓄積: 長年の漁による身体への負担、睡眠不足など。
- 判断ミス: 採集に夢中になるあまり、浮上タイミングを逸した、あるいは無理な潜行を試みた。
福井海上保安署の調査では、遺体の司法解剖による死因の特定、現場周辺の水中捜査、生存していた仲間の海女さんや関係者への詳細な聴取などが進められることでしょう。これらの情報が総合的に分析されることで、事故の具体的なメカニズムが明らかになり、将来的な事故防止策に繋がる貴重な教訓が得られるはずです。海のプロ中のプロであるベテラン海女さんたちが事故に遭ったという事実は、私たちに「海に絶対はない」という厳粛な警鐘を鳴らしています。
5. 高齢化社会におけるプロフェッショナルの安全と持続可能性
今回の福井での痛ましい事故は、私たちに海の厳しさと、安全対策の重要性を改めて教えてくれました。亡くなられた80代と70代の海女さんたちは、まさにその生涯を海と共に歩んでこられた方々です。そのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
この事故は、海女漁という特定の伝統漁業だけでなく、高齢化が進む現代社会において、経験豊富なベテランが第一線で活躍し続けるための安全管理のあり方について、極めて重要な示唆を与えています。どんなに経験を積んでも、自然を相手にする仕事、特に肉体的負荷の高い危険作業には常にリスクが伴います。
この悲劇から導き出される重要な教訓と、今後の展望は以下の通りです。
- 高齢者の労働安全衛生の再定義: 経験豊富なベテランであるほど、長年の勘や知識に頼りがちですが、身体機能の不可逆な変化は避けられません。定期的な健康診断に加え、潜水活動に特化した生理機能チェック(肺機能検査、心臓負荷検査など)や体力テストの導入が検討されるべきです。また、自身の身体能力の変化を正確に認識し、それに見合った無理のない漁を行う意識が当事者にも求められます。
- 伝統漁業における安全基準の確立と更新: 海女漁のような伝統的な素潜り漁は、歴史と文化に根ざしていますが、現代の安全基準や潜水医学の知見を取り入れることが重要です。漁協や地域団体が中心となり、高齢化に対応した具体的な安全プロトコルの策定や見直しを行う必要があります。例えば、潜水深度や時間の制限、休憩頻度の見直し、緊急時の連絡体制や救助訓練の強化などが挙げられます。
- テクノロジーによる安全性の補完: 伝統漁業に最新テクノロジーを導入することは、安全性向上に寄与する可能性があります。例えば、GPSを活用した位置情報共有システム、緊急時に浮上を促す装置、簡易な水中通信機器、心拍数などをモニタリングするウェアラブルデバイスなどが考えられます。これらは伝統文化の精神を損なうことなく、実用的な安全網となり得ます。
- 「海のプロフェッショナル」の自己認識と責任: 海のプロであることは、その恩恵を享受するだけでなく、その厳しさを常に認識し、最大限の注意を払う責任を伴います。長年の経験は自信となりますが、過信は禁物です。常に謙虚な姿勢で海に向き合い、自身の身体能力や健康状態の変化を客観的に評価し、必要であれば活動内容を見直す勇気もまた、プロフェッショナルとしての重要な資質です。
今回の事故の原因が究明されることを待ちつつ、私たち一人ひとりが、海に出かける際、あるいは日常の生活においても、「もしも」の事態に備える想像力と、安全への意識を常に持ち続けることの重要性を感じずにはいられません。海の恵みに感謝し、その美しさに感動するとともに、その持つ計り知れない力に常に畏敬の念を抱くこと。そして、私たちの命を守るための準備と心構えを怠らないこと。この悲しい事故から、そうした大切な教訓を学び、来るべき高齢化社会における自然とのより安全で持続可能な共生モデルを模索していくことが、何よりも重要であると私たちは考えます。