2025年11月8日
深刻化するクマ問題への本質的提言:日本熊森協会が示す「森の再生」と「被害防除」による持続可能な共存戦略
全国的にクマの出没と人身被害が深刻化し、緊急駆除が強化される現代において、日本熊森協会は「捕殺だけでは問題は解決しない」と断じ、より根源的なアプローチとして「森の再生」と「被害防除」を柱とする長期的な共存戦略を強く提唱しています。彼らの訴えは、単なる対症療法ではない、生態系全体と人間社会双方の持続可能性を見据えた多角的かつ戦略的な解決策の必要性を、私たちに突きつけています。これは、人間と野生動物との共存という複雑な課題に対し、感情論に流されることなく、科学的知見と倫理的考察に基づいた新たな議論を促すものです。
深刻化するクマ被害と緊急対策の現状:なぜ捕殺が主流となるのか
2025年、日本列島はかつてない規模のクマ出没と人身被害に見舞われています。特に今年度は、死亡者数が過去最多の13人に達し、負傷者数も200人を超える見込みとなるなど、その深刻さは社会機能にまで及んでいます。例として、秋田県では、クマによる農業被害額が前年比1.5倍に増加し、収穫期を迎える果樹農家は経済的打撃に加え、作業中の安全確保に神経を尖らせています。また、都市近郊では通学路の変更や部活動の中止、福井県勝山市での工場敷地内での緊急駆除など、各地で緊迫した状況が続き、住民の生活と精神衛生に多大な影響を与えています。
こうした事態を受け、政府は10月30日の関係閣僚会議で、人里に侵入したクマの迅速な駆除に向けた緊急措置を議論。具体的には、銃猟許可の要件緩和や実施者の拡大、地方自治体への財政支援強化などが検討されています。捕殺が緊急対策の主流となる背景には、即効性があり、目に見える形で被害を食い止められるという側面があります。被害に直面する住民の安全確保を最優先とする要請に応えるためには、迅速かつ直接的な手段が求められるため、緊急時の「対症療法」として捕殺が選択されるのは、ある意味で不可避な側面を持っています。しかし、このアプローチが根本的な解決に繋がるのかという問いは、依然として残されています。
日本熊森協会が訴える「本気の要請」:捕殺の限界と根本解決への道筋
こうした捕殺一辺倒の対策に対し、自然保護団体である日本熊森協会(本部:兵庫県西宮市)は、2025年11月6日に都内で記者会見を開き、環境大臣および農林水産大臣宛てに「緊急要請」と題する要望書を提出しました。協会会長の室谷悠子弁護士は、「捕殺だけでは問題が解決しないことは、これまでの状況から明らかです」と述べ、短期的な駆除を超えた「被害防除」と「森の再生」への総合的な取り組みを強く求めました。
彼らが指摘する「捕殺の限界」には、単なる個体数の減少だけでなく、より深い生態学的・行動学的な問題が潜んでいます。クマは学習能力が高く、安易な捕殺は、残された個体に人間への警戒心や回避行動を学習させる一方で、人里で餌を得る味を覚えた個体や、母グマを失った幼い個体がより危険な行動を取る可能性も指摘されています。さらに、一部の地域で個体数が回復傾向にあるとはいえ、捕殺が広域的に行われることで、個体群の遺伝的多様性が損なわれたり、特定の地域の群れ構造が不安定化したりするリスクも孕んでいます。真の解決策は、クマを「殺す」ことではなく、彼らが人里に近づく「理由」を取り除くことにある、というのが彼らの主張の核心です。
提案される具体的な解決策:被害防除と森の再生
日本熊森協会が提案する解決策は、大きく分けて二つの柱から成り立っています。
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被害防除策の強化:
- 出没防止策の徹底: 人里への誘引となるゴミ(特に生ごみ、資源ごみ)の管理強化は最も基本となる対策です。これには、クマが開けにくい蓋付きコンテナの導入や、特定の曜日・時間帯以外のゴミ出し禁止といった地域ごとの厳格なルール設定が求められます。また、放置された果樹や家庭菜園の収穫残渣はクマにとって格好の餌となります。自治体による放置果樹の買取制度や、地域住民への定期的な声かけ、収穫物の適切な管理指導などが不可欠です。
- 緩衝帯(かんしょうたい)整備: 人里と奥山の間に、クマが警戒するような見通しの良い帯状の空間を設けるアプローチです。これは、生態学でいう「エコトーン(生態遷移帯)」の考え方に応用され、クマが身を隠す場所を減らし、人里への侵入リスクを高める心理的バリアとして機能します。具体的には、里山林の藪刈りや下草刈り、クマが嫌うとされる特定の植生の導入(例:トゲのある植物)、電気柵や物理的な柵の設置、さらには適切な照明の配置などが挙げられます。
- 追い払い: 人里に近づいたクマに対し、非致死的な手段で山へ追い返す手法です。音響(花火、エアガン)、光(強力なライト)、あるいは猟犬の活用などが考えられます。重要なのは、クマに「人里は危険な場所である」という学習効果を与えることであり、そのために迅速かつ継続的な対応が求められます。
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森の再生:
- クマ出没増加の背景には、中山間地域の過疎化・高齢化による里山の管理放棄が挙げられます。かつて薪や炭の採取、採草地として活用されていた里山は、人間とクマの緩衝地帯としての機能を果たしていました。しかし、これらの管理がなされなくなることで、里山が鬱蒼とした森に変貌し、クマが人里に近づきやすくなっています。
- さらに、近年増加するメガソーラー建設などによる大規模な森林伐採は、クマの生息地を分断し、餌資源を減少させる直接的な要因となっています。特に、ブナやミズナラといった堅果類(ドングリ)を実らせる広葉樹林の伐採は、クマの主要な食料源を奪い、不作の年に人里への出没を一層加速させます。
- 協会の提唱する「森の再生」は、こうした広葉樹林の回復と、針葉樹人工林の広葉樹化を促すことで、クマ本来の餌資源を山中に豊かにすることを目的としています。多様な植生を持つ健全な森林生態系は、クマだけでなく、他の野生生物の生息環境を改善し、結果的に人里への依存度を低減させる効果が期待されます。
多様な視点から見るクマ問題の複雑性:生態、社会、経済の交錯
日本熊森協会の訴えは、社会に多角的な議論を巻き起こしています。クマ問題は、単なる「人間 vs クマ」の対立ではなく、生態系、地域経済、人間の安全、そして文化的な側面が複雑に絡み合った課題です。
1. 生態系と個体数管理の課題:適正個体数とは何か
クマは森林生態系の頂点捕食者であり、その存在は植生管理や他の野生動物の個体数に影響を与えます。日本のツキノワグマやヒグマの個体群は、過去の乱獲により一時は絶滅の危機に瀕しましたが、保護政策や狩猟規制の強化により、一部地域では個体数が回復傾向にあります。
* 餌資源の変動と行動パターン: クマの行動は、ブナやミズナラなどの堅果類の豊凶に大きく左右されます。これらの樹木は数年に一度の「マスティング(Mast-fruiting)」と呼ばれる一斉開花・結実現象を示し、豊作の年はクマが山中に留まる傾向が強く、不作の年には餌を求めて人里へ下りてくることが、行動生態学的な研究で明らかになっています。近年、気候変動がこの豊凶サイクルに影響を与えている可能性も指摘されており、その予測は一層困難になっています。
* 個体数増加と生息域の拡大: 環境省の推定では、ツキノワグマの個体数は全国で約2万頭(2021年)とされ、これは1990年代の約半数から大きく回復しています。特に東北地方や北陸地方では、個体数の増加に伴い生息域が拡大し、これまでクマがいなかった地域での出没も報告されています。これに対し、「生物は餌の最大限まで増えるため、現在のクマは増えすぎている」「人間が自然の天敵役として個体数調整に関与すべき」という意見も存在し、科学的な個体数推定と、社会的な許容個体数の議論が不可欠です。
* 遺伝子流動と個体群の健全性: 捕殺が過度に進むと、局所的な個体群が孤立化し、遺伝子の多様性が失われるリスクがあります。遺伝的多様性の低下は、環境変化への適応能力を弱め、長期的には個体群の存続を脅かす要因となり得ます。
2. 人間とクマの棲み分けの現実:ランドスケープ・エコロジーの視点
現代社会において、人間とクマの完全な棲み分けは、国土が狭く人口密度の高い日本では極めて困難な課題です。
* 緩衝帯の消失と里山の荒廃: 中山間地域の過疎化と高齢化は、里山の手入れ放棄を招き、かつて人里と奥山を隔てていた緩衝地帯としての里山の機能が失われました。これにより、クマは容易に人里まで接近できるようになっています。里山は単なる植生だけでなく、人間の活動(林業、農業、薪炭利用など)と密接に結びついた「人間活動が作り出した二次的自然」であり、その維持には人間の継続的な関与が不可欠です。
* 森林開発の影響の多面性: メガソーラー建設のような大規模な森林開発が、クマの生息環境に与える影響は複雑です。森林伐採が直接的な生息地の消失や分断を引き起こし、クマを人里へ押し出す可能性が指摘される一方で、「メガソーラー建設が進んでもクマの生息数は増えている」という反論や、「むしろ人工林伐採跡地に生える若木が餌となる」といった異なる視点も存在し、因果関係の特定にはさらなる詳細な調査と地域ごとの分析が必要です。
* 日本の国土の限界: 広大な原野が広がる北米や欧州とは異なり、日本では人間と野生動物の活動圏が必然的に重なりやすい地理的・社会的な現実があります。このため、他国の「ウィルダネス(原生自然)保護」のような大規模な隔離策は現実的ではなく、より密接な管理と共存の技術が求められます。
3. 地域の実情と対策の難しさ:現場の切実な声
クマ被害が多発する地域に暮らす人々は、生命と財産の安全確保という観点から、緊急性の高い対策を強く求めています。
* 住民のリスク認知と心理的負担: 毎日の生活においてクマとの遭遇リスクに晒されることは、住民に大きな心理的ストレスを与えます。特に子供のいる家庭や高齢者にとっては、外出すること自体が脅威となり、地域コミュニティの活力を奪う要因にもなりかねません。「理想論だけでは解決しない」「一度現場で暮らしてほしい」といった声は、被害に直面する住民の切実な思いを物語っています。
* 他の獣害との複合性: クマ問題は、ニホンジカやイノシシといった他の野生動物による獣害問題と複合的に考える必要があります。これらの草食動物が森林の植生に与える影響や、放棄された耕作地を餌場とすることなどが、クマの行動パターンにも間接的に影響を与える可能性があります。野生動物管理は、単一種の対策にとどまらず、生態系全体のバランスを考慮した統合的なアプローチが不可欠です。
* 財源と専門人材の不足: 被害防除策の実施、緩衝帯の整備、森林再生には、多大な財源と専門的な知識を持つ人材(野生動物管理士、森林技術者、地域コーディネーターなど)が必要です。過疎地域では、これらの資源を確保することが極めて困難であり、国や広域自治体の強力な支援が不可欠です。
持続可能な共存社会へ向けた提案:総合的なアプローチの必要性
日本熊森協会の訴えは、短期的な対症療法だけでなく、人間と野生動物が持続的に共存できる社会の実現に向けた、長期的な視点での戦略構築の重要性を改めて浮き彫りにしています。
彼らが提唱する「被害防除」への予算投入は、人里への出没を未然に防ぎ、人間の安全を確保するための具体的かつ予防的な方策です。電気柵の設置補助、ゴミ管理システムの改善、地域住民への啓発活動などは、直接的な被害減少に繋がります。また、「森の再生」は、クマ本来の生息環境を豊かにすることで、クマが人里に下りてくる根本的な要因を解消することを目指します。広葉樹林の整備、放置された里山の再生、多機能森林経営への転換は、クマだけでなく、多様な野生生物の健全な生態系を育む基盤となり、生物多様性の保全にも寄与します。
クマ問題は、特定の団体や専門家だけで解決できるものではありません。行政(環境省、農林水産省、林野庁の連携強化)、地域住民(被害者と共存推進派)、専門家(生態学者、獣医学者、野生動物管理専門家)、自然保護団体など、多様なステークホルダーがそれぞれの立場を超えて連携し、地域の実情に応じた「地域クマ管理計画(Local Bear Management Plan)」を策定・実施することが不可欠です。この計画には、科学的データに基づく個体数管理の目標設定、被害防除策の具体的実施計画、森林管理計画、住民啓発プログラム、そして財源と人材の確保が含まれるべきです。
結論:危機的状況を超え、共存の哲学へ
2025年11月8日、私たちはクマによる深刻な被害に直面し、その対策に苦慮しています。日本熊森協会が訴える「捕殺だけでは解決しない」というメッセージは、単にクマの命を守るという動物福祉の観点に留まらず、私たち人間が持続可能な社会を築く上で、野生動物との関係性をどのように再構築すべきかという、より深い問いを投げかけています。
人間の安全確保を最優先としつつも、野生動物との共存を目指すためには、捕殺を緊急時の最終手段と位置づけ、同時に「被害防除」と「森の再生」といった長期的な視点に立った取り組みを強力に推進していく必要があります。これは、個体数管理、生息地管理、そして人間社会の側の行動変容という三つの側面を統合した、包括的な野生動物管理戦略の構築を意味します。
この複雑な課題に対し、私たちは感情論に流されることなく、個体群生態学、行動生態学、ランドスケープ・エコロジーといった科学的根拠に基づいた冷静な議論と、多様な意見を尊重し合う対話を通じて、未来に向けた具体的な解決策を見出すことが求められます。真の共存とは、単に人間が野生動物の存在を許容することではなく、相互の生息圏を理解し、その上で社会経済活動と生態系保全を調和させるための不断の努力と、次世代への責任を伴う哲学であると言えるでしょう。この危機を、人間と自然の関係性を再考する契機と捉え、より持続可能で豊かな社会の実現に向けて、私たちは一歩を踏み出すべき時が来ています。


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