本稿の結論から先に述べると、『ゴールデンカムイ』に描かれる永倉新八の晩年は、単なる「エンジョイ勢」という言葉で片付けられるものではなく、激動の時代を生き抜いた剣客が、人間的成熟を経て、人生の深淵を理解し、それを謳歌した「賢者のエンジョイメント」であり、それは現代を生きる我々にも、人生における「強さ」と「豊かさ」の本質を問いかける、極めて示唆に富む生き様である。
導入:伝説の剣客、その晩年の輝き――「鬼」から「爺」への変遷が示す人生の深み
漫画『ゴールデンカムイ』は、明治時代末期の北海道を舞台に、アイヌの少女アシㇼパと元陸軍兵士の杉元佐一が、莫大な埋蔵金の在り処を巡る壮大な冒険活劇として知られる。しかし、その物語の深みに触れるとき、歴史上の人物たちが、単なる背景ではなく、彼ら自身の人生ドラマを紡ぎ出す稀有な存在として描かれていることに気づかされる。中でも、新選組二番隊組長、永倉新八は、その異彩を放つ晩年の姿によって、読者に強い印象を与えている。
「仲違いしていた元上司と和解し、昔のように大暴れして、最期は看取るとか、余生エンジョイしてて好き」。この一節に集約される永倉新八の魅力は、一見すると、激動の時代を生き抜いた剣客が、老いてなお人生を楽しむ「エンジョイ勢」として描かれていることに起因するように思われる。しかし、その「エンジョイ」の裏側には、単なる享楽主義ではない、剣客としての「強さ」と、人間としての「深さ」が結実した、一種の「賢者のエンジョイメント」とも呼べる境地が存在する。本稿では、歴史的背景と作品内での描写を詳細に分析し、永倉新八が「つよつよ爺」として、いかに充実した余生を送ったのかを、その人間的、そして哲学的側面から深く掘り下げていく。
永倉新八:幕末を駆け抜けた「鬼」の片鱗――剣技と「誠」の狭間
永倉新八(本名:長倉篤)は、実在した新選組において、近藤勇、土方歳三らと共に、京の治安維持という過酷な任務を遂行した中心人物である。その剣技は「鬼の永倉」と恐れられ、沖田総司と並び称されるほどの凄腕であり、彼の斬撃は「凄み」や「鬼気」といった言葉で表現されるに相応しい。新選組の行動原理であった「誠」の精神を体現する一人として、彼は数々の血生臭い戦場を潜り抜けてきた。
幕末という時代は、江戸幕府の終焉と明治維新という激動の変革期であり、新選組のような組織は、その激流に呑み込まれる運命にあった。永倉自身も、鳥羽・伏見の戦いでの敗走、そして江戸での新選組壊滅という、まさに「修羅場」を経験している。この時期の彼の行動は、単なる剣客の武勇伝としてだけでなく、武士としての矜持、組織への忠誠、そして生き残ることへの執念が複雑に絡み合ったものであった。この「鬼」とも称される一面は、彼の「強さ」の根源を形成する重要な要素であり、晩年の「エンジョイ」の基盤となる、揺るぎない精神的支柱となっていたのである。
晩年の「エンジョイ勢」:人間味あふれる「つよつよ爺」の姿――「強さ」の再定義と「絆」の再発見
『ゴールデンカムイ』作中、永倉新八は、その過去の栄光を背負いながらも、どこか達観した、そして何より人生を謳歌しているような飄々とした姿で描かれる。この「エンジョイ勢」ぶりは、単に無邪気に楽しんでいるというレベルではなく、人生の苦楽を知り尽くした「つよつよ爺」ならではの境地と言える。
1. 確執からの解放と友情の再燃――「和解」という高度な「エンジョイメント」
永倉新八が「エンジョイ勢」たる所以の一つは、かつて新選組内で確執があったとされる近藤周平(近藤勇の甥)との関係修復である。この和解は、単に過去のしがらみから解放されたという表面的な意味合いに留まらない。新選組の解体、そして近藤勇の処刑という悲劇を経て、永倉は、かつての同志、あるいはその関係者たちとの間に、複雑な感情を抱えていた可能性が高い。
精神分析学的な観点から見れば、このような長年の確執の解消は、「心理的統合(Psychological Integration)」のプロセスと捉えることができる。過去の否定的な感情や未解決の葛藤に決着をつけることで、内面的な平和を獲得し、自己受容を深める。これは、人生の終盤において、自己肯定感を高め、他者との関係性をより健全なものにするための、極めて高度な精神活動である。永倉が周平との関係を修復し、共に「大暴れ」する場面は、単なる友情の回復ではなく、過去の自分自身との和解、そして人生という物語への肯定的な回帰を示唆している。これは、単なる「楽しむ」というレベルを超えた、人生の「エンジョイメント」における最も深いレベルの一つと言えるだろう。
2. 昔のように「大暴れ」!?:健在な「つよさ」と人生への情熱――「能力の活用」という「エンジョイ」
「昔みたいに大暴れ」という言葉は、永倉の剣術の腕前が衰えていないことを示唆するだけでなく、人生に対する旺盛な活力と、その「強さ」を肯定的に活用しようとする姿勢を表している。老いてもなお、その鍛え抜かれた身体能力と精神力を失わず、むしろそれを活かして周囲と関わっていく姿勢は、「つよつよ爺」の称号にふさわしい。
この「大暴れ」は、単なる武勇伝の披露ではない。それは、彼が長年培ってきた「能力」を、人生のあらゆる局面で、自分らしく輝き続けるための「手段」として活用していることを示している。心理学における「発達課題(Developmental Tasks)」の観点から見ると、老年期においては、自己の能力を維持・活用し、社会との繋がりを保つことが、ウェルビーイング(Well-being)の向上に不可欠であるとされている。永倉は、その「強さ」を、単なる過去の遺産としてではなく、現在の人生を豊かにするための「リソース」として捉え、積極的に活用している。これは、現代社会で推奨される「アクティブ・エイジング(Active Aging)」の理想的な実践例とも言えるだろう。彼の「大暴れ」は、人生への情熱と、自己効力感の証であり、それ自体が「エンジョイメント」の源泉となっている。
3. 最期を看取るという「優しさ」――「共感」と「敬意」の「エンジョイメント」
そして、その人生の終盤において、かつての盟友たちの最期を看取るという行為は、永倉新八という人物の、剣客としての冷徹さや「鬼」の片鱗だけではない、人間としての深い情愛と優しさを示している。土方歳三をはじめとする新選組の仲間たちが、それぞれの最期を迎える場面に立ち会うことは、単なる義務感からくるものではないだろう。それは、共に激動の時代を駆け抜け、生死を共にし、そして何よりも、彼らの生き様、その「本質」に対する深い敬意からくる行動である。
これは、倫理学における「ケアの倫理(Ethics of Care)」の視点からも捉えることができる。相手の苦しみや存在そのものに寄り添い、その尊厳を守ろうとする姿勢は、永倉が単に「強い」だけでなく、「深い」人間であったことを物語っている。また、自らの最期が近づいていることを悟りながらも、他者の最期に立ち会うという行為は、「死の受容(Acceptance of Death)」という、老年期における重要な心理的発達課題をクリアしている証拠でもある。他者の死を看取るという経験は、自身の生の意味を再確認させ、人生という旅路の終着点への静かな覚悟と、共に生きた者への感謝の念を深める。このような、他者への深い共感と敬意に裏打ちされた行動こそ、人生という壮大な物語の結末を、静かに、そして豊かに「エンジョイ」する、賢者の姿と言えるだろう。
まとめ:現代に響く「エンジョイ」の哲学――「強さ」と「豊かさ」の再定義
『ゴールデンカムイ』の永倉新八は、単なる歴史上の人物のキャラクターとして、あるいは「エンジョイ勢」というレッテルで括られる存在としてだけではなく、人生を豊かに、そして深く生きるための、普遍的なヒントを与えてくれる。彼が晩年、過去の遺恨を断ち切り、友情を再燃させ、自らの「強さ」を人生の肯定に繋げ、そして他者への深い敬意をもって最期を迎えた姿は、現代を生きる我々にとっても、極めて示唆に富む。
「エンジョイ勢」という言葉は、ともすれば刹那的で軽薄な響きを持つかもしれない。しかし、永倉新八の生き様は、その言葉に深みと尊厳を与える。それは、困難な時代を生き抜いた者だけが到達できる、人生という名の「宝探し」を、最後まで諦めずに謳歌する哲学なのである。彼の「エンジョイ」は、単なる享楽ではなく、過去の経験、現在の能力、そして未来への受容が融合した、「統合的な人生哲学」の実践である。
永倉新八という「つよつよ爺」の生き様から、我々は、人生における「エンジョイ」とは何か、そして「強さ」とは何かを改めて考えさせられる。それは、単に肉体的な強さや、過去の栄光に縋り付くことではなく、人間としての深み、他者への共感、そして自らの生を肯定し、受け入れる精神的な強さなのだ。彼の物語は、これからも、激動の時代を生き抜いた者だけが持つ、静かな情熱と、人生の豊かさについての、温かく、そして力強いメッセージを、多くの読者の心に響かせ続けるだろう。そして、そのメッセージは、現代を生きる我々が、それぞれの人生を「エンジョイ」し、「強く」生きるための、確かな羅針盤となるはずである。


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