2025年10月20日
結論:黒死牟(継国巌勝)への擁護論・貶論に「ムカつく」という感情は、キャラクターの持つ「善悪二元論では割り切れない複雑性」への深い愛情と、その本質を単純化する議論への違和感から生じる、極めて高度なファンダム心理の現れである。
「鬼滅の刃」――この社会現象とも言える作品が提示する、極めて人間臭く、そして悲劇的なキャラクター造形は、我々ファンに多様な解釈と議論を促してきました。中でも、鬼の筆頭格、黒死牟、すなわち継国巌勝は、その強大な力、異形の姿、そして主人公・竈門炭治郎との血縁という宿命的な繋がりから、物語の中心的な謎であり、登場人物たちの行動原理に深く関わる存在です。しかし、この黒死牟というキャラクターを巡る擁護論と貶論の双方に対し、ある種の「面倒くささ」と、それ故の「ムカつき」を抱いてしまう、一人の「オタク」がいます。本稿では、この「面倒くさいオタク」の視点から、黒死牟への複雑な感情の根源を、心理学、文学批評、そしてファンダム論の観点から深く掘り下げ、その「ムカつき」が単なる感情論ではなく、キャラクター理解の深さから生まれる必然であることを論証します。
1. 「功績と罪の天秤」:擁護論が矮小化するものとは?
「兄上が下手に擁護されてると、『いや…兄上がやったことは最低最悪の極みだし、強さを求めて行き着いた先が侍擬きの鬼畜生なお労しい人…』」という「面倒くさいオタク」の叫びは、擁護論の表層的な肯定に対する、極めて鋭い批判的視点を示しています。この感情の根底には、キャラクターの「功績」と「罪」という二律背反する要素の重みを、擁護論が不当に歪めていることへの強い違和感があります。
1.1. 擁護論の視点とその限界:悲劇性の強調と倫理的責任の希薄化
黒死牟(継国巌勝)の擁護論は、しばしば彼の「かつての伝説的な剣士」としての側面や、「強さへの飽くなき探求心」、「生への恐怖」、「不死への執着」、「実弥との確執」、「弟(悲鳴嶼行冥)への複雑な想い」といった、彼の人間としての葛藤や悲劇性に焦点を当てます。これは、キャラクターの多層性を理解しようとする試みであり、文学作品における「アンチヒーロー」や「悲劇の主人公」といった分析枠組みに則れば、妥当な解釈と言えるでしょう。例えば、ニーチェの「超人」思想や、フロイトの「抑圧された願望」といった概念を援用すれば、彼の強さへの渇望は、単なる個人的な欲望に留まらず、当時の社会構造や個人の限界に対する根源的な抵抗として捉えることも可能です。
しかし、擁護論がこれらの側面を強調しすぎると、必然的に彼が鬼として犯した「最低最悪の極み」とも言える血腥い罪、すなわち無数の人間の命を奪い、その存在によって社会に甚大な恐怖と混乱をもたらしたという事実が、相対的に矮小化される危険性を孕んでいます。これは、犯罪心理学における「動機」と「結果」の論理的乖離、すなわち、どれほど同情すべき動機があったとしても、その行為がもたらした結果の重大さは免れ得ない、という原則を無視するかのようです。
1.2. 「面倒くさいオタク」の視点:罪の重みと救済不可能性への執着
「面倒くさいオタク」は、黒死牟の擁護論が、彼が鬼として犯した「血腥い罪」を軽視していると感じます。彼の視点では、黒死牟は「強さ」という名の「呪い」に囚われ、人間性を失い、「侍擬きの鬼畜生」と成り果てた、救済不可能な存在として映ります。この「侍擬きの鬼畜生」という言葉には、かつての「侍」としての誇りや矜持を失い、ただ鬼としての残虐性のみを晒す姿への苛立ちと、それ故の哀れみ、そして「そこまで堕ちてしまったのか」という、ある種の嘆きが入り混じっています。
この感情は、文学作品における「モラリティ」と「キャラクターの魅力」の間の緊張関係に起因すると考えられます。読者は、しばしば悪役の複雑な内面や悲劇性に魅力を感じますが、同時に、その悪行に対する倫理的な裁きを下したいという欲求も持ち合わせています。擁護論は、後者の欲求を抑制し、前者の魅力を過度に強調することで、「面倒くさいオタク」にとっては、キャラクターの本質を見誤っているかのような、不完全燃焼感をもたらすのです。彼にとって、黒死牟は「擁護すべき過去の悲劇」と、「断罪されるべき現在の業」が、あまりにも強烈に、そして不可分に絡み合っている存在であり、擁護論は、その「断罪されるべき現在」を覆い隠してしまうように感じられるのでしょう。
2. 「でも…」の深層:理解しきれない複雑さへの反発と、断罪論の空虚さ
一方、黒死牟を一方的に「鬼畜生」「悪」と断罪する声に対しても、「ムカつく」と感じる点は、単なる擁護の裏返しではありません。これは、キャラクターの多層性、特に「人間」としての葛藤や弱さといった、感情的・心理的な側面を無視した、極端な二元論への反発であり、キャラクター理解の浅さへの違和感から生じます。
2.1. 貶論の視点とその限界:単純な善悪二元論と「悪」の記号化
黒死牟の鬼としての行いは、確かに物語上、断罪されるべきものです。しかし、貶論は、しばしば彼の内面に潜む「人間としての栄光にしがみつく心理」、「強さへの渇望に囚われる様」、「弱さへの恐怖に屈した葛藤」といった、複雑な心理メカニズムを無視します。まるで、彼を「悪」という単一の記号に還元し、その背後にある人間的な動機や弱さを排除しようとするかのようです。
これは、認知心理学における「ステレオタイピング」や「カテゴリー化」の弊害とも言えます。人間は、効率的な情報処理のために、他者を単純なカテゴリーに分類しがちですが、それが複雑な個人やキャラクターの理解を妨げることがあります。黒死牟の場合、「鬼」というカテゴリーに囚われることで、彼が「人間」であった過去や、その人間であったが故の苦悩が、見過ごされてしまうのです。
2.2. 「面倒くさいオタク」の視点:普遍的な人間の「弱さ」への共感と、複雑さの尊重
「面倒くさいオタク」は、黒死牟を単なる「悪」として切り捨てることにも、強い抵抗感を覚えます。これは、彼が黒死牟を、「鬼滅の刃」という物語の中で、最も普遍的な人間の「弱さ」――すなわち、自己肯定感の低さ、他者への劣等感、そして老いへの恐怖といった、誰しもが抱えうる感情――に囚われ、その結果として破滅的な道を選んでしまった、極めて「人間的」なキャラクターの一人だと認識しているからです。
彼の「ムカつき」は、単なる論争への苛立ちではなく、キャラクターの持つ「複雑さ」が、単純な「悪」というレッテル貼りで矮小化されてしまうことへの、一種の「もったいなさ」や「不完全燃焼感」の表れです。それは、作品の antagonist(敵対者)に、単なる悪役以上の深み、すなわち「なぜ彼がそのような行動をとるのか」という根源的な問いを求める、文学的・心理的な探求心に他なりません。
3. 「面倒くさい」という自覚:オタク的「愛」の高度な萌芽
彼が自らを「面倒くさいオタク」と称する点に、この複雑な感情の核心があります。「面倒くさい」という言葉には、単なる批判への苛立ちだけでなく、キャラクターへの深い愛情ゆえに、その全体像を理解し、腑に落ちる説明を求める、ある種の「こだわり」と「探求心」が透けて見えます。
3.1. オタク文化における「愛」の深層:対象への「解像度」への欲求
オタク文化において、キャラクターへの「愛」は、しばしば、そのキャラクターを可能な限り詳細に、深く理解しようとする「解像度」への欲求と結びつきます。これは、単にキャラクターの外見や能力を称賛するだけでなく、その背景にある設定、心理、行動原理、そして物語全体における位置づけなどを、網羅的かつ深層的に分析しようとする態度です。
黒是牟の場合、その「複雑さ」こそが、この「解像度」への欲求を刺激します。擁護論や貶論は、しばしばその「解像度」を低下させ、キャラクターを単純な二極に押し込めてしまうため、「面倒くさいオタク」にとっては、彼への「愛」の表現として、看過できないものとなるのです。
3.2. 擁護論・貶論への「ムカつき」:高度な愛の形ゆえの逆説的帰結
キャラクターを深く愛するがゆえに、その善悪二元論では割り切れない部分にこそ、魅力を感じ、その複雑さを理解しようと努める。しかし、それが擁護論や貶論という形で、表層的な議論に終始してしまうと、愛情の深さゆえに、かえって「ムカついてしまう」という、逆説的な感情に陥るのです。
これは、高度な知的好奇心と、作品への真摯な向き合い方から生まれる、ファンダム心理の極致と言えるでしょう。単なる感情論ではなく、キャラクターの多層性を理解し、その複雑さ自体を愛でることが、真のファンシップのあり方なのかもしれません。
結論:複雑さを愛でる「オタク」の叫びは、作品への敬意の証である
黒死牟(継国巌勝)というキャラクターは、その「強さ」と「業」、「人間」と「鬼」という、相反する要素を強烈に内包した、極めて複雑な存在です。彼を擁護する声も、貶す声も、その一部を切り取ったものであり、彼の全てを語り尽くすことはできません。
「面倒くさいオタク」の「ムカつき」は、キャラクターへの深い愛情からくる、「その複雑さの全てを理解したい」「安易なレッテル貼りで終わらせたくない」という、純粋な願いの表れです。それは、作品の製作者が丹念に作り上げたキャラクターの奥行きを、ファン自身が深く理解し、尊重しようとする、高度なファンダム文化の現れと言えます。黒是牟というキャラクターが、私たちに投げかけるのは、善悪では割り切れない人間の業と、強さへの渇望がもたらす悲劇の物語であり、その複雑さを愛でることが、真にキャラクターを理解することに繋がるのではないでしょうか。
この「面倒くさい」という自覚こそが、黒是牟というキャラクターの深淵を覗き込もうとする、真摯な探求心の証であり、作品への敬意の表れなのです。この複雑さが、さらなる深い考察へと繋がり、読者一人ひとりの「鬼滅の刃」体験をより豊かなものへと昇華させることを願って。
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