『YAWARA!』という伝説的漫画において、猪熊柔の頂点への道のりに確かに存在した、しかし読者の記憶から薄れてしまった「ジョディ」という人物こそが、ある種の「忘れられたラスボス」と呼ぶにふさわしい、極めて興味深い存在である。その存在は、単なる強敵の一人という範疇を超え、物語の終盤における柔の心理的成長、さらには読者の記憶形成メカニズムという、より普遍的なテーマに光を当てる鍵となる。
1. 『YAWARA!』を彩るライバルたちの系譜と、記憶の断層
浦沢直樹氏による『YAWARA!』は、主人公・猪熊柔の柔道家としての成長、そして人間的成熟を描いた不朽の名作である。その物語は、数々の名勝負と、魅力的なライバルたちの存在なくして語ることはできない。伊達臣人、松田聖子、そして何よりも柔の生涯のライバルとして君臨した風祭富士子。彼女たちとの対峙は、読者に興奮と感動を与え、漫画史に燦然と輝く金字塔を打ち立てた。
しかし、物語の終盤、猪熊柔が「最強」たる所以を決定づける、あるいはその過程で生じる心理的障壁としての「ラスボス」的な存在は、一般的に「富士子」という図式で語られがちである。ここに、私たちが「誰も覚えていないラスボス」と呼ぶべき、ある人物、すなわち「ジョディ」の存在が浮かび上がる。インターネット上の断片的な議論で「ジョディ涙目」といった表現と共に名前が挙がる事実は、彼女(あるいは彼)が読者の記憶の底流に、何らかの形で確かに存在したことを示唆している。
2. 「ジョディ」の正体――断片情報から紐解く、記憶の「ノイズ」と「シグナル」
「ジョディ」という名前が、インターネット上の匿名の掲示板で、しかも「涙目」という感情的なニュアンスと共に語られている事実は、極めて示唆に富む。これは、単なる試合の勝敗以上の、読者の感情に訴えかける何かがあったことを示唆している。
柔道という競技において、「涙目」は敗北の証であり、悔しさ、無念さ、そして敗北感の象徴である。しかし、『YAWARA!』における「ジョディ」が「涙目」になったという情報が、もし柔が勝利した試合の文脈で語られているとすれば、それは単なる敗北以上の意味合いを持つ。そこには、柔の圧倒的な強さ、あるいは「柔道」という競技そのものが持つ、ある種の「理不尽さ」すら感じさせるような、読者の心に突き刺さる衝撃があったのかもしれない。
『YAWARA!』におけるライバルたちは、それぞれの背景や哲学を持ち、柔の成長の糧となる。富士子のように、柔の「鏡」とも言える存在であり、彼女との戦いは、自己との対峙であった。松田聖子のような、異色の柔道スタイルで柔を翻弄する存在もいた。では、ジョディはどのような位置づけだったのか?
もしジョディが、柔の「理想」や「純粋さ」を覆い隠すような、ある種の「世俗的な強さ」あるいは「効率主義的な戦い方」を体現していたと仮定すると、柔がその「壁」を乗り越える過程は、単なる技術論ではなく、柔の「魂」の成長を描く上で不可欠な要素だったと言える。そして、その「勝利」が、ジョディにとって「涙」を流すほどの、しかし読者には「忘れられた」ほどの、複雑な感情を伴うものであったとすれば、それは「ラスボス」という言葉の、ある一面を体現しているとも言える。
3. 記憶の「網膜」に焼き付かなかった理由――「印象」と「機能」の二項対立
では、なぜジョディは、富士子のように鮮烈に記憶に残らなかったのだろうか。この問いに答えるためには、人間の記憶、特に物語におけるキャラクターの記憶定着メカニズムを考察する必要がある。
a. 「印象」と「機能」の分配:
物語におけるキャラクターは、読者に「印象」を与える存在と、物語を「機能」させる存在に大別できる。富士子は、その圧倒的な強さとカリスマ性で、読者に鮮烈な「印象」を残した。一方、ジョディは、柔の成長という「機能」を果たす役割が強かったのではないか。その「機能」は、物語の進行上不可欠だが、読者の感情に直接訴えかける「印象」としては、富士子に劣る場合がある。
b. 「想起」と「忘却」のダイナミクス:
記憶は、能動的な「想起」と、不可避的な「忘却」のダイナミクスによって形成される。読者は、物語を読み終えた後、自身にとって重要だと感じたキャラクターやシーンを「想起」しやすい。ジョディが、柔の勝利という「結果」に直結する存在であり、その後の物語展開で直接的に関わってこないとすれば、読者の「想起」の対象から外れやすくなる。これは、認知心理学における「ピーク・エンドの法則」とも関連が深い。物語のピーク(例えば、富士子との決着)や、終盤の「エンド」(最終的な結末)に強い印象が残りやすく、中盤の「出来事」は相対的に忘れられやすい傾向がある。
c. 「感情的喚起力」の差:
「涙目」という情報が示唆するように、ジョディの敗北は、読者の感情に何らかの波紋を投げかけたはずである。しかし、その感情の「質」が、富士子との「宿命の対決」のような、読者の共感を強く呼ぶものではなかった可能性も考えられる。例えば、ジョディの敗北が、読者にとって「当然の結果」として受け止められ、感情的な高揚や葛藤を生み出しにくかった場合、記憶への定着は弱まる。
4. 専門分野からの考察:物語論、認知心理学、そして「忘れられた」ことの価値
『YAWARA!』における「ジョディ」という存在を掘り下げることは、物語論における「ライバルの類型論」や、認知心理学における「記憶の形成と忘却のメカニズム」、さらには「文化的記憶」の観点からも、非常に興味深い知見をもたらす。
a. 物語論的視点:機能的ライバルとしての「ジョディ」
物語論において、ライバルは主人公の成長を促す触媒としての役割を担う。ジョディは、柔が「最強」となるために乗り越えなければならない、ある種の「最終関門」として機能した可能性が高い。しかし、その「機能」が、物語の構造的な必要性から生まれたものであり、キャラクター自身の内面的な葛藤や魅力が、読者に深く刻み込まれるほどに描かれなかった場合、その存在は「忘れられる」運命を辿る。これは、アリストテレス以来の「起承転結」における「転」の役割を担ったキャラクターが、その後の「結」に直接繋がらない場合に起こりうる現象とも言える。
b. 認知心理学:情動と記憶の結びつき
前述の「ピーク・エンドの法則」に加え、記憶の符号化、貯蔵、検索というプロセスにおいて、ジョディの記憶は、他の主要キャラクターと比較して、情動的な喚起力が弱かった、あるいは「想起」のトリガーとなる情報が少なかったと考えられる。人間は、情動的に強く揺さぶられた出来事を記憶しやすく、また、その記憶はより永続的である。ジョディとの対決が、読者に強い「驚き」や「共感」といった情動を喚起するものではなかったとすれば、それは「忘れられる」要因となる。
c. 文化的な「忘却」の意義
一方で、「忘れられた」こと自体に、ある種の「価値」を見出すこともできる。ジョディが「忘れられた」のは、物語が順調に進み、柔が最終的な成功へと向かったからに他ならない。つまり、彼女は「乗り越えられた壁」であり、その「越えられた」という事実こそが、柔の強さを証明している。それは、読者にとって、物語の「満足度」に繋がる要素であり、その「満足度」が、個々の「忘れられた」キャラクターの記憶を凌駕する。これは、文化的な記憶において、偉大な功績や成功談が、その過程で埋もれた無数の努力や犠牲を上回る現象とも似ている。
5. 結論:ジョディという「忘れられた」存在が示唆するもの
『YAWARA!』における「ジョディ」という存在は、単なる「覚えていないキャラクター」というレベルを超え、私たちが物語をどのように記憶し、評価するのか、そして「忘れられた」ことの裏に隠された物語の「機能」や「構造」について、深く考察する契機を与えてくれる。
彼女(あるいは彼)は、柔の成長という壮大な物語の歯車として、確かに機能した。その「涙」は、読者の記憶の片隅に、ある種の「違和感」や「余韻」として残っているのかもしれない。そして、その「忘れられ方」こそが、『YAWARA!』という作品の奥深さ、そして浦沢直樹氏の描く物語の巧みさを示唆していると言えるだろう。
私たちが、登場人物全員の名前やエピソードを完璧に記憶しているわけではない。しかし、物語全体を通して、主人公の成長やテーマ性が、読者の心に深く響き渡っていれば、それは「成功した物語」である。ジョディは、まさにその「成功した物語」を支える、「忘れられた」しかし極めて重要な「存在」なのである。
『YAWARA!』を再び手にした時、あなたはきっと、猪熊柔の輝かしい勝利の陰に、静かに、しかし確かに存在した「ジョディ」の姿を、記憶の断片から再構築できるはずだ。そして、その「忘れられた」存在に思いを馳せることで、あなたは『YAWARA!』という作品の、さらに深遠な魅力を発見することになるだろう。それは、作者が意図した、あるいは意図せざる、読者との間に生まれた「記憶の風景」そのものである。
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