2025年9月14日
札幌市南区のゴルフ場で発生したヒグマ駆除事案は、野生動物との共存、そして自己防衛における法的責任のあり方について、極めて深刻な問題を提起しています。突如襲いかかってきたヒグマを、緊急回避のために駆除したハンターが、「無許可駆除」という理由で違法とされる可能性が浮上したのです。本稿では、この事案の背景にある法制度の複雑性、現場の切迫した現実、そして今後の展望について、専門的な視点から詳細に掘り下げ、「身を守るための行為が、いかに法的なグレーゾーンに置かれうるのか」という核心に迫ります。最終的な結論として、現状の法制度と野生動物との遭遇が増加する現実との間には、深刻な乖離が存在しており、個人の危機回避行動と社会全体の安全保障とのバランスを再考する必要があることを論じます。
1. 事案の概要:ゴルフ場に現れた「生命の危機」とハンターの決断
2025年9月4日、札幌市南区の「滝のカントリークラブ」という、普段は穏やかなゴルフ場が、一変して緊迫した状況に包まれました。この日、鳥獣保護管理法に基づきシカの駆除許可を得ていたハンターが、本来の目的とは異なる原因調査のため、コース内をパトロールしていました。その折、突如として、推定体長約1.4メートルのヒグマが、ハンターに向かって襲いかかってきたのです。
これは、単なる野生動物の目撃ではありません。ヒグマは、その巨体と強力な爪、そして知能から、人間にとって最悪の捕食者の一つと認識されています。襲いかかるヒグマという状況は、まさに「生命の危機」と呼ぶにふさわしい、極限状態です。ハンターは、この緊急事態に対し、反射的に所持していた銃で応戦しました。4発の発砲のうち1発がクマに命中し、ヒグマは駆除されました。この行為は、客観的に見れば、自己の生命を守るため、あるいは周囲の安全を確保するための、やむにやまれぬ決断であったと解釈するのが自然でしょう。
1.1. 専門的視点:ヒグマの攻撃性と襲撃メカニズム
ヒグマ、特にエゾヒグマは、その攻撃性において他のクマ科動物と比較しても高い部類に入るとされます。単に空腹だから、あるいは縄張り意識から襲いかかるのではなく、不意を突かれた際の防衛本能、母グマが子を守る際の執念、あるいは獲物と誤認した場合など、複数の要因が複合的に絡み合い、人間への襲撃を引き起こす可能性があります。襲撃のメカニズムとしては、まず威嚇行動(唸り声、鼻を鳴らす、頭を振るなど)が見られますが、それが無視されたり、距離が詰まりすぎたりすると、急襲、あるいは突進といった攻撃に移ります。体長1.4メートルというサイズは、成獣としては中型ですが、その破壊力は侮れません。鋭い爪は木を剥ぎ、骨を砕くほどの力を持っています。このような動物に正面から対峙した場合、人間が素手で対抗することは不可能に近く、唯一の有効な手段となりうるのが、火器による撃退なのです。
2. 問題の核心:緊急避難の「壁」と「無許可駆除」という罪
この一連の出来事が、俄かに「違法」という色合いを帯びてきたのは、ハンターが自治体からヒグマの駆除許可を正式に取得していなかったという事実が浮上したからです。
鳥獣保護管理法(以下、法)は、野生鳥獣の保護と適正な管理を目的としており、原則として、これらの鳥獣を捕獲・殺傷する行為には許可が必要です。この許可は、通常、自治体長の判断を経て、専門知識を有する者(猟友会所属のハンターなど)に委託される形で行われます。今回、ハンターは銃刀法に基づく銃の所持免許は有していましたが、猟友会に所属しておらず、ヒグマ駆除に関する正式な許可自体は得ていませんでした。
この状況に対し、現役ハンターでもある中村憲昭弁護士は、「ヒグマの駆除の許可を持っていないにもかかわらず、ヒグマの見回りに出たとなれば、銃刀法の解釈を安易に考えすぎかなと。緊急避難で逃れられるというのは安易かなと思います」と、法律解釈の難しさ、そして「緊急避難」という法理の適用に慎重な姿勢を示唆しています。
2.1. 「緊急避難」の法理:その要件と現実的な適用
刑法第37条に規定される「緊急避難」は、まさにこのような事態を想定した法理と言えます。これは、「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」と定めています。
本件において、ヒグマの襲撃は「現在の危難」に該当し、発砲行為は「避けようとした害(生命の喪失)」よりも「生じた害(ヒグマの駆除)」が小さいと解釈される可能性があります。しかし、緊急避難の適用には、以下の厳格な要件を満たす必要があります。
- 危難の現在性・不正性: 危機が既に発生している、または差し迫っていること。かつ、その危機が不法なものでないこと(ヒグマが一方的に悪意を持って襲ってきたわけではない)。
- 避難行為の必要性: 他に取るべき手段がないこと。つまり、逃走や威嚇など、より穏当な手段で危機を回避できなかったこと。
- 相当性: 生じた害が、避けようとした害の程度を超えないこと。生命の危機という最悪の事態を回避するために、一頭のヒグマを駆除することは、相当な範囲内と判断される可能性が高いです。
- 補充性: 避難行為が、危難を回避する上で他に有効かつ相当な手段がない最後の手段であること。
弁護士が指摘するように、「緊急避難で逃れられるというのは安易」という点に、この法理の適用における難しさがあります。法廷では、冷静な状況判断が求められ、襲撃される「寸前」であったか、あるいは「逃走の機会」はなかったのか、といった詳細な事実認定が厳密に行われます。一瞬の判断が問われる現場の状況と、後から冷静に分析される法廷での議論には、必然的に隔たりが生じます。また、そもそも「ヒグマの見回り」という行為自体が、法的な許可なく行われていた場合、その行為の違法性が問題視される可能性も排除できません。
2.2. 銃刀法との関係性:許可なき「所持」の解釈
さらに、銃刀法との関連も議論の余地があります。ヒグマ駆除は、単なる射撃行為ではなく、特定の目的(捕獲、駆除)のために銃器を使用する行為とみなされます。この場合、鳥獣保護管理法に基づく「駆除許可」が、銃刀法上の「正当な目的」として、法的にどのように位置づけられるのかが問題となります。許可なくヒグマの駆除を試みた行為は、銃刀法違反に問われる可能性も否定できません。
3. クマとの遭遇が増える現実と、法律の「乖離」
近年、全国的にクマの出没件数は増加の一途をたどっています。環境省の発表によると、2023年度のクマによる被害件数は過去最多を記録するなど、その深刻さは増しています。この背景には、以下のような要因が複合的に絡み合っていると考えられます。
- 森林環境の変化: 人間活動による森林伐採や、自然災害による植生の変化が、クマの生息環境を狭め、餌資源の獲得を困難にしている。
- 餌資源の変動: ブナ科植物の結実状況の年周期や、シカなどの主要な獲物の個体数変動が、クマの移動範囲や採食行動に影響を与える。
- 個体数増加: 一部の地域では、クマの個体数が増加し、生息域が拡大している。
- 都市化・生活圏の拡大: 人間の居住域が野生生物の生息域に侵入し、遭遇機会が増加している。
このような状況下で、札幌のゴルフ場での事案のように、人里近く、あるいは人間の活動域でクマとの遭遇が発生することは、もはや珍しい出来事ではなくなっています。住民の安全確保が喫緊の課題となる中で、「身を守るための駆除」が法的なグレーゾーンに置かれることは、現場の混乱を招くだけでなく、住民の間に「自分たちの安全は保障されないのか」という不安を掻き立てる可能性があります。ハンターが、「撃てば処罰されるかもしれない」と躊躇し、結果として被害が拡大するという最悪のシナリオも、決して絵空事ではありません。
3.1. 法改正の動きと「保護」と「人命」のバランス
鳥獣保護管理法は、本年9月に改正されたばかりですが、この改正が今回の事案に直接的な影響を与えるかどうかは、まだ不透明な部分もあります。法改正の目的は、野生鳥獣による農林業被害の軽減や、特定鳥獣(有害鳥獣)の管理強化などが主眼ですが、「緊急時の対応」に関する条文が、どのように解釈・運用されるかが重要となります。
野生動物の「保護」という大義名分と、人間の「生命」という絶対的な法益。この二つのバランスをいかに取るか、という問題は、社会全体で向き合っていくべき、根源的な課題です。過去の判例や学説では、一般的に、人の生命・身体といった法益は、野生動物の保護という法益よりも優位に立つと解釈される傾向にありますが、実際の適用においては、個別の事案の「やむを得なさ」の証明が極めて重要になります。
4. まとめ:知っておくべきこと、そして社会に求められること
今回のヒグマ駆除事案は、私たちに、野生動物との共存社会における、避けては通れない問題提起をしています。
- 身を守るための緊急行為が、法的な処罰の対象となりうるのか?
- 増え続けるクマとの遭遇に対し、現行法は十分に対応できているのか?
- 「保護」と「人命」のバランスを、具体的にどう取るべきなのか?
現状、クマに襲われそうになった場合の撃退方法、あるいはその後の法的責任については、個々の事案ごとに、詳細な状況証拠、専門家の意見、そして裁判所の判断によって、その合否が決定されます。つまり、「自己防衛のためにヒグマを駆除した場合、それが法的に許容されるかどうかは、後になってみなければ分からない」というのが、現時点での厳しい現実なのです。
一般市民としては、まず第一に、クマとの遭遇を未然に防ぐための知識(クマの生態、出没しやすい場所、遭遇時の対処法など)を身につけることが肝要です。万が一遭遇した際には、冷静さを保ち、大声を出したり刺激したりせず、ゆっくりと後退するなど、安全に距離を取る行動が最優先されます。それでもなお、襲撃の危険が回避できない状況に陥った場合は、やむを得ず反撃を試みることもあるでしょう。その際には、可能な限り、状況を詳細に記録(録音、録画、目撃証言など)し、速やかに警察や関係機関(自治体の担当部署、猟友会など)に連絡することが、後々の法的責任を判断する上で極めて重要となります。
そして、社会全体として、この問題に真摯に向き合う必要があります。野生動物の保護は重要ですが、それと同時に、人々の生命と安全を守るための法制度の整備も不可欠です。具体的には、以下のような多角的な視点からの議論と行動が求められます。
- 法改正による「緊急避難」の要件明確化: クマなどの危険な野生動物に襲われた際の、やむを得ない駆除行為に対する法的責任の免除・軽減に関する条文の明確化や、具体的なガイドラインの策定。
- 行政による積極的な情報提供と教育: クマの生態や危険性、遭遇時の対処法に関する住民への啓発活動の強化。
- 専門家(ハンター、研究者、行政担当者)と地域住民との連携強化: 早期の出没情報共有、合同でのパトロール、被害防止策の共同実施など。
- 「共存」のあり方の再定義: 人間の生活圏と野生生物の生息域との緩衝帯の設置、都市計画における野生動物への配慮など、より長期的な視点に立った対策。
本稿が、この複雑かつ喫緊の課題に対する理解を深め、皆様が「身を守る」という行為とその法的側面について、より深く考察する一助となれば幸いです。究極的には、人命の安全を最優先しつつ、野生動物とも共存できる、より合理的で、より人道的な社会システムを構築していくことが、私たちに課せられた責務と言えるでしょう。
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