2025年09月03日
「最近の子って漫画が読めないらしいよ」――この、一見すると懐疑的でユーモラスな噂の根底には、現代社会におけるメディア環境の変化、情報消費スタイルの変容、そしてそれらが漫画という芸術形式の受容に与える影響という、極めて現代的かつ複雑な課題が横たわっています。本稿は、その火種となったとされる『ボボボーボ・ボーボボ』(以下、ボーボボ)を事例として、この「読めなさ」の真相を多角的に深掘りし、世代間ギャップのメカニズムと、漫画表現の可能性について、専門的な視点から考察します。結論から申し上げれば、現代の若者が「漫画を読めない」というよりは、漫画の「読み方」や「楽しみ方」が、多様化・複雑化しており、従来の画一的な解釈や受容スタイルからの逸脱が、一部で「読めなさ」として認識されている、と理解するのが適切です。
噂の火種:『ボボボーボ・ボーボボ』に見る漫画表現の実験性と「情報非線形性」
この噂の起点として、澤井啓夫氏による『ボボボーボ・ボーボボ』が挙げられるのは、極めて示唆に富んでいます。ボーボボは、その作品構成において、当時の少年漫画の常識を覆すような革新的な表現を多用しました。鼻毛真拳という奇抜な設定、登場人物の思考や感情が文字通り「飛び出す」ようなメタフィクション的表現、唐突なパロディや時事ネタの挿入、そして「第四の壁」を容易に越えるセルフパロディや読者への直接的な語りかけなど、その表現手法は極めて「実験的」かつ「非線形的」でした。
これらの表現は、単なる奇抜さやギャグに留まらず、以下のような漫画表現における深遠な技術に支えられています。
- メタフィクションと脱構築: キャラクターが作者の存在を認識したり、物語の都合を自覚したりするメタフィクション的手法は、読者に「物語」そのものへの意識を向けさせ、既存の物語構造を「脱構築」します。これは、読者に対して、物語の「虚構性」を自覚させ、能動的な解釈を促す効果があります。
- 「見立て」と「換喩」の多用: 鼻毛真拳のような、本来の文脈とは全く異なるものを「見立て」て攻撃とする手法や、意味論的な飛躍を伴う「換喩」的なギャグは、読者に言語的・概念的な連想を強く要求します。これは、作品世界における「常識」や「意味」の構築を、読者の知的な作業に委ねる側面が強いと言えます。
- 「余白」と「期待」の操作: 予測不可能な展開や、一見無意味に見える要素の挿入は、読者の「次の展開」への期待を裏切ると同時に、その「余白」に作者の意図や隠された意味を「補完」しようとする欲求を刺激します。
これらの表現は、読者の知的好奇心や想像力を極限まで掻き立てる一方で、その理解には、作者の意図を推察する能力、作品世界における暗黙の了解を共有する能力、そして何よりも、「情報非線形性」、すなわち、提示された情報が必ずしも論理的・時間的に整然と並んでいるわけではない、という状況を受け入れる柔軟性が求められます。
「読めない」と感じるメカニズム:情報消費スタイルと「認知的負荷」の変容
それでは、なぜ現代の若者がボーボボのような作品を「読めない」と感じることがあるのでしょうか。これには、単なる世代間の趣味嗜好の違いを超えた、より構造的な要因が複数存在します。
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メディア環境の激変と「高速情報消費」:
インターネット、特にSNSや動画共有プラットフォームの普及により、現代社会の情報環境は劇的に変化しました。情報伝達の速度が指数関数的に増加し、コンテンツの消費スタイルは「短尺動画」「結論先行型」「要約重視」へとシフトしました。これは、認知科学における「認知的負荷(Cognitive Load)」の概念とも関連します。現代の若者は、膨大な情報の中から効率的に「意味」を抽出し、即座に理解するための情報処理能力に長けている一方、ボーボボのような、文脈を丹念に積み重ね、隠された意味を推察するような、「持続的・分析的認知」を要求されるコンテンツに対する、相対的な「認知的負荷」が高く感じられる可能性があります。
特に、TikTokやYouTubeショートに代表される短尺動画では、視聴者の集中力を維持するために、映像、音楽、テロップが高度に統合され、即座に感覚的な理解を促す設計がなされています。このようなメディアに慣れ親しんだ感覚からすると、漫画におけるコマの配置、セリフの量、描線の密度といった、静的で分析的な要素の積み重ねは、情報処理の「速度」や「効率」という観点から、やや「遅く」「非効率的」に映るのかもしれません。 -
ユーモアの「共有知」と「帰属意識」:
ユーモア、特にボーボボに代表されるようなシュールでナンセンスなギャグは、その成立において、特定の文化的背景、共通の体験、あるいは「共通の知識(Shared Knowledge)」に強く依存します。例えば、特定のパロディネタが成立するには、その元ネタを知っていること、そしてその元ネタが持つ文脈やステレオタイプを理解していることが前提となります。
現代の若者は、グローバル化やSNSを通じて、多様な文化や価値観に触れる機会が増えています。その一方で、地域や年代、コミュニティに固有の「共通知」は、相対的に希薄化する傾向があります。ボーボボのギャグが、特定の時代や世代が共有していた「暗黙の了解」や「文化的コンテクスト」に依拠している場合、それを共有しない世代にとっては、そのギャグの「意味」や「面白さ」が「腑に落ちない」、すなわち「腹落ち」しない、という事態が生じます。これは、認知心理学でいう「スキーマ(知識構造)」の不一致とも言えます。 -
「説明可能性」への希求と「解釈の委譲」への抵抗:
現代のコンテンツ制作においては、視聴者や読者を「置いていかない」という配慮から、物語の伏線やキャラクターの動機、意図などが、極めて丁寧かつ明示的に説明される傾向が強まっています。AIによるコンテンツ生成や、アルゴリズムによるパーソナライズされた情報提供も、ユーザーの「期待」や「要求」に即座に応えようとする性質を持っています。
このような環境に慣れた世代にとって、ボーボボのような、意図的に「曖昧さ」や「不条理」を残し、読者自身に「解釈」や「推論」を促すような表現は、ある種の「不親切さ」や「説明不足」として捉えられる可能性があります。これは、AIにおける「説明可能性(Explainability)」の重要性が叫ばれる現代社会の風潮とも呼応するかもしれません。彼らは、コンテンツ提供者からの明確な「指示」や「解答」を期待する傾向があり、自ら積極的に「物語の構造」や「作者の意図」を解き明かす、という能動的な「解釈作業」への「抵抗感」を抱く、と解釈することもできます。
漫画の可能性:受容スタイルの多様化と「体験」としての価値
しかし、ここで重要なのは、「読めない」という言葉の定義です。もし、ボーボボのような作品を「理解できない」と感じる若者がいたとしても、それは彼らが漫画という表現媒体そのものを否定しているわけでは、断じてありません。むしろ、これは、漫画という芸術形式が、時代と共にその受容スタイルを変化させている、という事実を浮き彫りにしていると捉えるべきです。
現代の若者は、多様なメディアプラットフォームを横断しながら、自分自身の感性や理解スタイルに合った「漫画の楽しみ方」を創造しています。例えば、以下のような受容スタイルの変化が考えられます。
- 「部分的な面白さ」への着目: ストーリー全体の論理的な繋がりや、細かな伏線回収に集中するのではなく、SNSで話題になるような「インパクトのあるシーン」「奇抜なギャグ」「共感できるセリフ」といった、「断片的な面白さ」に焦点を当てて作品を楽しむ傾向があります。これは、短尺動画文化とも親和性が高いと言えます。
- 「二次創作」や「解釈の共有」を通じた理解: 作品を一度「消費」するだけでなく、SNS上での感想の共有、二次創作、考察動画の視聴などを通じて、作品世界への理解を深めたり、自分なりの解釈を形成したりするプロセスを重視します。これは、コミュニティ内での「共同的な意味構築」とも言えます。
- 「文脈」ではなく「体験」としての価値: ストーリーの構造や作者の意図を深く理解することよりも、作品が提供する「感情的な体験」――驚き、笑い、感動、あるいは不条理さからくる戸惑い――そのものに価値を見出す場合もあります。ボーボボの持つ、予測不能でカオスな世界観そのものが、一種の「体験」として成立しているのです。
結論:漫画との新しい関係性の構築
「最近の子は漫画が読めない」という噂は、一見すると単純な世代間の断絶を示唆しているように見えますが、その実、現代社会のメディア環境、情報消費行動、そして文化的受容の変容という、より広範な現象の一端を映し出しています。
現代の若者たちは、かつての世代とは異なる「フィルター」を通して漫画を読み、作品との新しい関係性を築いています。彼らは、ボーボボのような、一見すると「理解困難」に見える作品から、独自の視点で面白さを見出し、それを他者と共有し、さらに発展させていく可能性を秘めています。
漫画は、その表現の幅広さと深さを通じて、常に時代と共に進化してきました。もし、現代の若者が、かつての私たちとは異なる「読み方」で漫画に触れているとしたら、それは漫画という芸術形式が、新しい時代に適応し、さらに豊かになるための兆候であると捉えるべきです。彼らが、ボーボボのような作品から何を感じ取り、どのように解釈し、それを自身の文化体験として昇華させていくのか。その変化を否定するのではなく、「共存」し、「新しい漫画との付き合い方」を模索していくことこそが、現代に生きる私たちに課せられた、創造的かつ建設的な課題と言えるでしょう。
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