【話題】ザマスとゴクウブラックへの複雑な感情の心理メカニズム

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【話題】ザマスとゴクウブラックへの複雑な感情の心理メカニズム

2025年08月21日

ドラゴンボールシリーズ、とりわけ『ドラゴンボール超』におけるキャラクター造形は、単なる戦闘力や必殺技の応酬に留まらず、視聴者の感情に深く訴えかける複雑な心理的構造を有しています。本稿では、特に「ザマス」というキャラクターに対する一種の嫌悪感や共感し難さを抱きつつも、「ゴクウブラック」および「ゴクウブラック(ロゼ)」といったその変貌形態には強い魅力を感じているという、一見矛盾するファン心理の根源を、認知心理学、キャラクター論、そして物語論の視点から深掘りし、そのメカニズムを解明します。結論から言えば、ザマスは「普遍的悪意」の露悪性により共感を拒絶される一方、ゴクウブラック/ロゼは「歪んだ理想」の提示とその背後にある「偽りの正義」への希求という、人間心理の根源に触れる要素が、視覚的な美学や力強さと融合することで、一種の倒錯的な魅力を獲得しているのです。

1. キャラクターの「個」の強度と心理的受容の境界線:ザマスという「異物」

「ねいろ速報」による「キャラ立ちの仕方が尋常じゃない」という的確な表現は、ザマスが視聴者の感情に強烈な「ノイズ」として作用することを示唆しています。このノイズは、彼の行動原理の根幹をなす「mortals are scum( mortalsは scum)」という極端で排他的な思想に起因します。

  • 思想の絶対性と「悪の単純化」: ザマスの思想は、人間という種全体を、その存在自体をもって否定するものです。これは、倫理学や社会心理学において「他者排除」や「集団間対立」の極端な形態と見なされます。このような絶対的で普遍的な否定は、多くの人々にとって自己の価値観や存在意義そのものへの脅威となり得るため、深いレベルでの共感を不可能にします。心理学的には、この思想は「悪の単純化」であり、その露骨さゆえに、視聴者は倫理的な拒否反応を示しやすいのです。
  • 「正義」の独善性とカリスマの逆説: 彼は自らの思想を「絶対的な正義」と位置づけ、それを完璧に実行しようとします。この「思想の絶対性」と「完璧な実行」への希求は、一種の狂気と同時に、見方によっては極端なまでの「潔さ」や「意志の強さ」として映ります。しかし、その「正義」が他者の尊厳や存在そのものを踏みにじるものである場合、そのカリスマ性は「反感」という形でしか受容されません。これは、極端なイデオロギーが時として魅力的に見える逆説的な現象と関連していますが、ザマスの場合、その根拠が「神」であるという権威のみであり、論理的な妥当性や共感性を持たないため、あくまで「理解し難いが、目が離せない」という傍観者的な視点に留まります。
  • 「神」というメタファーの限界: 『ドラゴンボール超』における「神」の概念は、しばしば人間の欲望や煩悩を剥ぎ取られた純粋な存在として描かれることがあります。しかし、ザマスの場合、「神」であることの特権性を利用して、人間の持つ矛盾や欠点を極端に批判し、自らの存在理由を「絶対的な裁き」に置きます。これは、哲学における「神学的虚無主義」や、社会学における「権威主義」の表層的な側面を想起させますが、その動機が「完璧な秩序の創造」という、ある種の理想主義に根差しているという点が、物語に複雑さをもたらします。しかし、その理想が「破壊」と「支配」という手段に依存するため、結局は「異物」としての側面が強調されます。

2. ゴクウブラック/ロゼの魅了:偽りの顔と歪んだ理想の「共鳴」

対照的に、ゴクウブラック、そして特にスーパーサイヤ人ロゼへの魅了は、より複雑な心理的メカニズムに基づいています。

  • 「偽りの姿」と「剥き出しの思想」のギャップ: ゴクウブラックは、孫悟空という「善」の象徴であるキャラクターの姿を借りています。しかし、その内面にはザマスの「 mortals are scum」という思想が宿っています。この「善なる姿」と「悪なる内面」とのギャップは、心理学における「認知的不協和」を誘発すると同時に、視聴者の好奇心を強く刺激します。人は、本来あり得ない組み合わせや、矛盾した状況に無意識に惹きつけられる傾向があるのです。
  • 「理想」の具現化としての倒錯: ゴクウブラックは、ザマスの「完璧な世界」という理想を、悟空の姿で、そして最終的にはスーパーサイヤ人ロゼという「神聖さ」と「破壊性」を兼ね備えた形態で具現化します。この「歪んだ理想」の追求は、人間が持つ「より良い世界を求める」という根源的な欲望に、ある種の共鳴を起こさせます。もちろん、その手段や結果は極めて暴力的かつ非倫理的ですが、「理想」そのものの提示は、たとえそれが歪んでいても、視聴者に「もし~だったら」という思考実験を促し、キャラクターの存在感を高めます。
  • スーパーサイヤ人ロゼの「視覚的・美的」なインパクト: スーパーサイヤ人ロゼの「ピンク」という色合いは、従来のスーパーサイヤ人(金髪)とは一線を画す、独特の美学を持っています。これは、単なる強さの表現に留まらず、神聖さ、神性、そしてある種の「禍々しさ」を同時に表現する色彩心理学的な効果を持っています。神聖な力と邪悪な意志の融合は、視覚的にも極めて印象的であり、キャラクターに「芸術性」すら感じさせるのです。これは、ロマン派芸術における「崇高美」の概念とも通じ、恐ろしくも美しいものに惹かれる人間の感情に訴えかけます。
  • 「自己正当化」の構造: ゴクウブラックの言動は、常に自らの行動を「正義」として正当化する構造を持っています。これは、自己肯定感を維持しようとする人間の心理メカニズムとも重なります。視聴者は、彼の言葉に倫理的な正当性を感じないものの、「なぜ彼はそこまで自己を正当化するのか」という背景に興味を抱くことがあります。この「自己正当化」の強さが、彼のキャラクターに深みを与え、単なる残虐な敵役以上の存在にしています。

3. 物語における役割と「悪」の多層性

これらのキャラクターの存在は、『ドラゴンボール超』という物語に、単なる善悪二元論を超えた深みを与えています。

  • 「正義」と「倫理」の相対化: ザマス、ゴクウブラック、ロゼは、「正義とは何か」「過ちを犯す存在を誰が、どのような理由で裁くのか」という、古来より続く哲学的な問いを、極端な形で提示します。彼らの思想がどれほど歪んでいたとしても、その根底にある「完璧な世界への希求」や「秩序の維持」という、ある種の「動機」は、人間社会においても無意識のうちに共有されうるものです。これにより、視聴者は「善」とされる側(悟空たち)の行動原理や正当性についても、相対的に問い直す機会を得ます。
  • 「ヒーロー」と「アンチヒーロー」の境界: 孫悟空やベジータといった、地球や宇宙の平和を守るヒーローたちは、その「力」だけでなく「愛」や「友情」といった感情を原動力としています。対照的に、ゴクウブラックたちは「力」と「思想」を絶対化し、感情を極端に抑制(あるいは歪曲)して行動します。この対比は、キャラクターの「存在理由」や「価値観」の根源的な違いを浮き彫りにし、物語のドラマ性を高めます。
  • 「IMG_6323」に示唆される「カリスマ」と「恐怖」の二面性: (参照画像がないため、一般的なゴクウブラック/ロゼのイメージからの推測となりますが)彼らのデザイン、特にスーパーサイヤ人ロゼの優雅さと、その裏に隠された冷酷さ、そして傲岸不遜な態度は、一種の「カリスマ」として視聴者に認識されます。これは、単なる恐ろしい敵というだけでなく、その「美しさ」や「異質さ」が、心理的な魅力を付加する要素となります。この「美しさ」と「恐怖」の共存は、人の心を惹きつける「崇高」な感情を想起させ、彼らの存在感を決定的にしています。

4. 結論:複雑だからこそ、記憶に残る「異形」の魅了

ザマスというキャラクターへの複雑な感情、すなわち一種の嫌悪感や共感の拒絶は、彼の行動原理を成す「普遍的悪意」の露悪性と、その思想の倫理的・論理的破綻に起因します。しかし、その思想が「偽りの正義」として、孫悟空という「善」の象徴の姿を借り、さらにスーパーサイヤ人ロゼという「神聖」かつ「歪んだ理想」を具現化する形態で発現することで、ゴクウブラック/ロゼは、単なる悪役を超えた、強烈な「倒錯的魅力」を獲得するのです。

彼らの「キャラ立ち」の異常なまでの強さは、単なるビジュアルデザインの巧みさだけでなく、その思想、行動原理、そして物語における「異質な善意」あるいは「歪んだ理想」の追求という、人間心理の根源に触れる要素が、視覚的な美学や圧倒的な力強さと巧みに融合していることにあります。理解はできなくとも、その「異形」なる存在が提示する「もしも」の世界観や、極端なまでの「自己正当化」の強さ、そして視覚的な美学は、視聴者に深い印象を残し、ドラゴンボールシリーズにおけるキャラクター造形の多様性と奥深さを改めて示すものと言えるでしょう。彼らの存在は、単なる「敵」ではなく、人間の持つ「理想」への希求とその「歪み」、そして「善」と「悪」の曖昧な境界線について、視聴者に考察を促す貴重な「触媒」となっているのです。

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