2025年08月21日
本稿は、2025年9月1日より施行される「緊急銃猟」制度の運用に関し、北海道猟友会が全71支部に対し、現場の状況に応じて発砲を拒否することを認める通知を送付したという衝撃的な事実を、単なるニュースとしてではなく、その背景にある法改正の意図、ハンターが直面する深刻な倫理的・法的ジレンマ、そして野生動物との共存という現代社会の喫緊の課題へと多角的に深掘りし、専門的な視点から論じるものである。結論から言えば、この北海道猟友会の決定は、法制度の理想と現場の現実との間に生じた深刻な乖離、特に、人身被害発生時の責任所在の曖昧さが、制度の実効性を危うくする潜在的リスクを如実に示している。
1. 「緊急銃猟」制度の創設とその法理的根拠:被害防止と公衆衛生の狭間で
今回の「緊急銃猟」制度は、市街地や夜間におけるクマやイノシシといった野生動物の出没増加と、それに伴う人身被害、農作物被害の深刻化という、社会的に無視できない問題への対応策として国が鳥獣保護管理法を改正したことに端を発する。従来、野生動物、特に鳥獣保護管理法で保護されるべき対象となる動物(保護鳥獣)への発砲は、原則として狩猟期間・区域外、または正当な理由(例えば、正当防衛や緊急避難)がない限り、鳥獣保護法違反(密猟)となり、厳しく罰せられてきた。 また、市街地や居住地域近傍での発砲は、不特定多数の市民の安全を脅かす危険行為とみなされ、銃刀法違反や業務上過失致死傷罪といった刑法上のリスクも極めて高かった。
しかし、近年、都市近郊や住宅密集地域への野生動物の出没が常態化し、住民の生命・身体に直接的な脅威を与える事例が後を絶たない。こうした状況下で、従来の「許可制」や「原則禁止」という枠組みでは、被害発生後の対応に遅れが生じ、結果として人命が失われたり、甚大な被害が発生したりするリスクが指摘されてきた。「緊急銃猟」制度は、こうした事態に対処すべく、市町村長等の判断により、これらの「原則禁止」とされてきた状況下でも、野生動物への発砲を一定の条件下で可能とする、いわば「特例措置」とも言えるものである。 これは、社会公共の安全確保、すなわち「公衆衛生」の観点から、被害を未然に防ぐための強力な権限を自治体に与えることを意図している。
2. ハンターの苦悩:見えないリスクと倫理的ジレンマの核心
しかし、この制度の導入は、現場で実際に銃器を手に取るハンターたちに、新たな、そして極めて深刻な負担を強いることになった。北海道猟友会が「発砲拒否を認める」という苦渋の通知を出した背景には、「緊急銃猟」制度において、人身被害などが発生した場合の補償制度が極めて不十分、あるいは実質的に存在しないという、看過できない問題がある。
ここで、法的な観点からこの問題を掘り下げてみよう。緊急銃猟の文脈でハンターが発砲を行う場合、その行為は、個人の狩猟行為というよりも、公的な要請に基づく「公権力の行使」に近い性質を帯びると解釈することも可能である。しかし、現行法制下では、その「公権力の行使」に付随するリスクに対する公的な補償体制が確立されていない。
具体的には、もしハンターが市街地でクマに発砲した際、誤って周辺の市民に銃弾を命中させてしまった場合、その損害賠償責任は、原則として発砲したハンター個人に帰属することになる。 現代社会における訴訟リスクは極めて高く、万が一、重篤な人身事故が発生した場合、ハンター個人の資力では到底賄いきれない莫大な賠償額が請求される可能性がある。これは、ハンターという職業(あるいはボランティア)を維持する上で、致命的な経済的・精神的負担となる。
さらに、この問題は倫理的な次元も内包している。ハンターは、長年の経験と研鑽によって培われた高度な射撃技術と、標的動物の行動、そして周囲の環境を瞬時に判断する能力を持つ専門家である。しかし、市街地という、常に不確実性が伴う環境下での発砲は、彼らの専門能力をもってしても、100%の安全を保証できるものではない。「弾が真っ直ぐ飛ぶ」という物理法則の絶対性とは裏腹に、複雑な環境要因(風、障害物、予測不能な動物の動き、そして何よりも人の存在)は、あらゆる射撃において微細ながらも誤差を生じさせる可能性を孕んでいる。 そのような状況下で、自らの判断によって発砲し、万が一、人身事故を招いてしまった場合、その倫理的な重責は計り知れない。
北海道猟友会が環境省に対し、ハンターの身分保障を求めているのは、まさにこの、「公共の利益のために、リスクを負って職務を遂行する者に対する、国家(または自治体)による十分な保護措置の欠如」 という構造的な問題点を指摘しているのである。これは、単なる利己的な要求ではなく、法制度の不備によって、国民の安全を守るための重要な担い手が、その活動を継続できなくなる事態を防ぐための、極めて合理的な要求と言える。
3. 野生動物との共存:都市化と生物多様性の複雑な相互作用
「緊急銃猟」制度が議論される背景には、都市化の進展と野生動物の生息域との境界線が曖昧になっているという、より広範な生態学的・社会学的課題が存在する。かつては明確に区分されていた「人間社会」と「野生動物の生息地」は、都市の拡大、農山村の過疎化、そして人間活動による環境改変(森林伐採、道路建設など)により、その境界が溶け合っている。
特に、クマの出没増加については、単に個体数が増加したという単純な理由だけでなく、彼らの主要な餌資源(ブナ、ナラなどの堅果類、山菜、動物性タンパク質源)の減少や、移動経路の遮断といった、生息環境の変化が複合的に影響している可能性が指摘されている。 例えば、気候変動による豊凶の変動や、一部地域でのクマの生息密度の上昇が、本来の生息地から彼らを押し出し、人里へと移動せざるを得ない状況を生み出している、といった仮説も提唱されている。
イノシシについても同様に、農地の拡大や、彼らにとっての安全な隠れ場所・繁殖場所としての里山環境の変化などが、都市部への進出を促していると考えられる。こうした状況は、野生動物を単なる「駆除対象」として捉えるだけでは解決できず、彼らの生態、行動様式、そして生息環境全体を理解した上での、より包括的かつ持続可能な共存戦略が求められていることを示唆している。
「緊急銃猟」制度は、あくまで「緊急避難的」な対応であり、根本的な解決策とは言えない。むしろ、この制度が運用されるということは、我々人間社会が、野生動物の生息環境への配慮を十分に行えていない、という現実の証左とも言える。
4. 今後の展望:制度の熟成とハンター支援体制の構築に向けて
北海道猟友会の今回の通知は、新しい制度が現場に導入される際に生じうる「予期せぬ問題」や、「制度設計上の抜け穴」を浮き彫りにした点で、極めて重要な意味を持つ。この問題提起は、北海道に留まらず、同様の課題に直面している全国の自治体や猟友会にとって、教訓となるべきであろう。
今後の展望としては、以下の点が重要となる。
- 補償制度の確立と法整備: 環境省や関係省庁は、ハンターが「緊急銃猟」の要請に応じた際に、人身事故や器物損壊事故が発生した場合の、損害賠償責任を公的に補償する制度を速やかに確立する必要がある。これは、国家賠償法や、あるいは専門的な保険制度の導入といった形が考えられる。
- ハンターの専門性向上と安全教育の強化: 「緊急銃猟」は、一般の狩猟とは異なる高度な判断力と技術を要する。自治体は、ハンターに対する専門的な安全教育や、市街地での安全な射撃・捕獲技術に関する研修を、より一層強化する必要がある。
- 地域住民とハンターとの連携強化: 野生動物との共存には、地域住民の理解と協力が不可欠である。自治体は、野生動物の生態や習性、そして出没状況に関する情報提供を積極的に行い、住民とハンターとの間の誤解や摩擦を解消するための努力をすべきである。
- 予防的対策の推進: 銃器による捕獲は、あくまで最終手段であるべきだ。野生動物が市街地へ侵入しにくい環境整備(物理的な防護柵の設置、餌となる廃棄物の適切な管理など)や、生態系に配慮した土地利用計画の策定といった、予防的な対策をより一層推進していく必要がある。
結論として、北海道猟友会の「発砲拒否OK」という通知は、法制度の不備と現場の現実との乖離、そして野生動物との共存という複雑な課題に対する、社会全体の意識改革を促す警鐘である。 我々は、この通知を単なるハンターの「抵抗」と捉えるのではなく、公衆の安全と専門家の倫理的・法的責任という、より根本的な問題提起として受け止めるべきである。そして、この問題提起を契機として、より実効的で、かつ関係者全員が納得できる、持続可能な野生動物対策のあり方を、社会全体で再構築していくことが求められている。
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