【深層分析】劔岳・3連続滑落事故の構造:これは「個人の過失」ではなく「システム」の警鐘である
2025年08月20日
結論:悲劇の連鎖は「ヒューマンエラー」ではなく「システムエラー」の顕在化である
2025年のお盆期間、日本の山岳界に激震が走った。北アルプス・劔岳(つるぎだけ)において、3日連続で滑落死亡・重傷事故が発生したとの一報。この悲劇に対し、多くの論調は登山者の「技術不足」や「判断ミス」といった個人の責任、すなわちヒューマンエラーに帰結しがちである。しかし、本稿は異なる視点を提示したい。この連続事故は、単独の過失が偶発的に重なったのではなく、現代の登山文化、情報環境、そして登山者の認知バイアスが複雑に絡み合って生じた、予見可能な「システムエラー」であると。この構造を解き明かさない限り、同様の悲劇は形を変えて繰り返されるだろう。本稿では、この「システム」の脆弱性を解剖し、真に求められる『究極の備え』を再定義する。
1. 事故の再構成:統計データが示す「典型的な罠」
複数の報道を統合すると、2025年8月14日から16日にかけて、別山尾根ルートを中心に複数の滑落事故が発生した。特筆すべきは、いずれの事故も①夏山の最盛期、②比較的天候が安定した日中、③経験者とされる登山者によって引き起こされている点だ。
これは、警察庁が発表する山岳遭難統計の傾向と不気味に一致する。遭難者のうち約7割は40代以上であり、その多くが登山経験5年以上の中・上級者である。彼らはなぜ事故に遭うのか。答えは、劔岳特有の物理的リスクと、登山者の心理的リスクの相互作用にある。
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物理的リスクプロファイル:
- 地質学的脆弱性: 劔岳の岩稜は、氷河に削られた脆い花崗岩で構成される。これが「浮石」の多発地帯である所以だ。一見頑丈そうなホールド(手がかり・足がかり)が、予告なく剥離するリスクは常に存在する。
- 微気象の急変: カール(圏谷)地形は局所的な雲や霧を発生させやすく、晴天予報下でも数分で視界が奪われる「ホワイトアウト」に近い状況を生む。濡れた岩の摩擦係数は乾いた状態の半分以下に低下し、高性能な登山靴のソールですらその性能を失う。
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心理的リスクプロファイル:
- 正常性バイアス: 「天気が良い」「他の登山者もいる」という状況は、「危険は少ないはずだ」という認知バイアスを強力に誘発する。このバイアスが、ヘルメットの顎紐を緩めさせ、三点支持の一瞬の油断を生む。
- サミットフィーバー(登頂への固執): 「ここまで来たのだから」というサンクコスト効果は、冷静な撤退判断を妨げる最大の敵である。特に、SNSでの登頂報告を意識する現代の登山文化は、この心理的罠を増幅させる傾向にある。
今回の事故は、これらのリスク要因が複合的に作用した典型例と言える。天候の安定がかえって油断を誘い、登山者の集中が焦りを生む。そして、一瞬のバランス喪失が、脆い岩稜での致命的な滑落に直結したのである。
2. 要因の解剖①:ヒューマンファクターの深層 —「知っている」と「できる」の乖離
多くの登山者は「三点支持」や「浮石への注意」といった安全原則を知識として知っている。しかし、事故は起きる。これは、知識(knowing)と実践(doing)の間に存在する深い溝、すなわち「Know-Do Gap」が原因だ。
- 自動化された行動の罠: 経験豊富な登山者ほど、岩場での一連の動作が無意識・自動化されている。この自動化は効率的だが、予期せぬ事態(浮石、他者の落石、突風)への反応を遅らせる。疲労が蓄積した下山時などは、脳の実行機能が低下し、この傾向はさらに顕著になる。
- 装備への過信: 高性能な登山靴や軽量な装備は、登山者に「安全マージンが増えた」という錯覚を与える。しかし、装備はあくまでリスクを低減するツールであり、リスクをゼロにするものではない。特に、ハーネスやスリング(確保器具)を携行していても、その正しい使用法(自己確保=セルフビレイ)を熟知し、難所で適切に使いこなせる登山者は驚くほど少ない。これは、装備を持つことが「安全のお守り」と化している危険な兆候である。
3. 要因の解剖②:ソーシャルファクターの功罪 — SNS時代のリスク拡散
現代の登山において、SNSや登山アプリは情報収集に不可欠なツールとなった。しかし、その利便性の裏には、リスクを軽視させる構造的な欠陥が潜んでいる。
- 成功体験の過剰供給: SNS上には、美しい山頂からの写真、いわゆる「映え」が溢れている。しかし、そこに至るまでの困難、危険、あるいは撤退したという「失敗体験」が共有されることは稀だ。この情報の非対称性が、登山者に「自分も簡単に登れるはずだ」という誤った自己効力感を植え付けてしまう。
- 情報の断片化: ルート上の危険箇所や通過にかかる時間など、断片的な情報は容易に入手できる。しかし、それらの情報を統合し、自身の体力、技術、当日のコンディションと照らし合わせて総合的なリスクアセスメントを行う能力がなければ、情報は単なるノイズに過ぎない。特に「カニのタテバイ・ヨコバイ」のような有名な難所ばかりに注意が向き、それに至るまでの長く続く岩稜帯での疲労蓄積という、より本質的なリスクが見過ごされがちだ。
今回の連続事故は、こうした情報環境が生んだ「準備の最適化の失敗」とも言える。登山者は、有名な難所を通過するための情報は集めても、山行全体を通じて集中力と体力を維持するための計画、すなわちエネルギーマネジメントや精神的な備えを怠っていた可能性がある。
4. 究極の備えとは何か:リスクマネジメント理論に基づく次世代の安全登山
「徹底した計画」「適切な装備」「勇気ある撤退」という従来の安全啓発は、もちろん重要だ。しかし、それらがヒューマンエラーを防ぎきれないことは、繰り返される事故が証明している。我々は、安全対策をアップデートする必要がある。
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「スイスチーズモデル」による多層的防御:
事故は単一の原因でなく、複数の防御層(スイスチーズの穴)が偶然一直線に並んだ時に発生する。計画の不備、装備の選択ミス、体調不良、天候の誤判断、そして現場での一瞬の油断。これらの「穴」を一つでも多く塞ぐことが重要だ。- 対策: 登山計画を「Plan A(最適計画)」だけでなく、「Plan B(天候悪化時)」「Plan C(体調不良時)」「Plan D(装備故障時)」まで想定する。各プランへの移行基準(デシジョンポイント)を事前に明確化しておく。これが、システムとしての防御層を厚くすることに繋がる。
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メタ認知能力のトレーニング:
メタ認知とは、自身の認知活動を客観的に認識する能力、すなわち「もう一人の自分が、冷静に自分を監視している」状態である。「疲れているな」「少し焦っているな」「判断が楽観的になっていないか」と自己をモニタリングし、認知バイアスの罠に陥る前に行動を修正する。- 対策: 登山中に定期的に立ち止まり、「セルフアセスメント・タイム」を設ける。疲労度、精神状態、計画との進捗乖離を客観的に評価し、記録する習慣をつける。
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コミュニティによる安全文化の醸成:
「無事に下山したこと」こそが最大の成果であるという価値観を、登山コミュニティ全体で共有・強化する。登頂成功だけでなく、「厳しい状況だったが、冷静に撤退した」という経験談を称賛し、積極的に共有する文化を醸成することが、サミットフィーバーに対する強力なワクチンとなる。
結論と提言:山への畏敬をシステムとして組み込む
劔岳での連続滑落事故は、我々に痛烈な問いを投げかけている。それは、我々が山とどう向き合うべきかという、登山文化の根幹に関わる問いだ。この悲劇を個人の責任に矮小化し、「気をつけましょう」という精神論で終結させてはならない。
真の教訓は、安全を個人の資質や努力だけに依存するのではなく、計画、思考プロセス、情報リテラシー、そしてコミュニティの価値観といった「システム」として構築し直す必要がある、ということだ。山への畏敬の念を、精神論ではなく、具体的な行動変容とリスクマネジメントのシステムに組み込むこと。それこそが、劔岳の頂を目指す全ての登山者に求められる『究極の備え』であり、この悲劇を未来への礎とする唯一の道である。
亡くなられた方々の冥福を心よりお祈りするとともに、この分析が、日本の登山文化をより安全で成熟したステージへと押し上げる一助となることを切に願う。山は逃げない。しかし、我々の時間は有限であり、その時間を無為にしてはならない。
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