【速報】マキバオー終盤は進化だ。ポストモダン競馬漫画としての結論

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【速報】マキバオー終盤は進化だ。ポストモダン競馬漫画としての結論

2025年08月12日

【専門家が解剖】マキバオー終盤はなぜ”迷走”したか?―90年代ジャンプの構造と「ポストモダン競馬漫画」への必然的進化―

序論:結論―それは「迷走」ではなく「進化」だった

『みどりのマキバオー』。その名は多くの漫画ファンにとって、笑いと涙に満ちた感動的な競馬叙事詩として記憶されている。しかし、物語終盤で繰り広げられた「ワールドカップ編」の常軌を逸した展開――森やピラミッドがコースに出現するその様は、しばしば「迷走」「バトル漫画化」と評されてきた。

本稿は、この通説に専門的分析のメスを入れるものである。先に結論を提示する。『マキバオー』終盤の作風転換は、単なる「迷走」や「蛇足」ではない。それは、90年代週刊少年ジャンプの商業的要請と、つの丸という作家の批評性が高度に融合した結果生まれた、ジャンル批評的な「ポストモダン競馬漫画」への必然的進化であった。

本記事では、この命題を「①90年代ジャンプの構造的要請」「②マンガ表現論から見たレース描写の革新性」「③作家性に見るジャンルの脱構築」という3つの視点から多角的に解剖し、なぜあの伝説的なフィナーレが生まれたのか、そしてそれが現代においていかに再評価されるべきかを論証する。

第1章:90年代ジャンプの構造的要請―「インフレ」と「トーナメント」という宿命

ワールドカップ編の作風を理解する上で不可欠なのが、掲載誌『週刊少年ジャンプ』が持つ構造的特性、とりわけ90年代におけるそれである。

1. 「インフレの法則」と「トーナメント形式」という黄金律
「友情・努力・勝利」を掲げるジャンプにおいて、物語の長期化は必然的に敵の強さのインフレーションを招く。国内のライバルを全て下したマキバオーが、次なる舞台として「世界」を目指すのは、この「インフレの法則」に則った極めて自然な展開であった。『ドラゴンボール』が地球から宇宙へ、『幽☆遊☆白書』が人間界から魔界へと舞台を移したように、『マキバオー』もまた、競馬というジャンルの中でこの法則を適用したのである。

さらに重要なのが「トーナメント形式」の導入だ。ワールドカップ編は、各国代表と1対1で戦い、勝ち進んでいくという、ジャンプ漫画の王道であるトーナメント構造を色濃く反映している。これは、読者アンケートの結果が連載の継続を左右する「アンケート至上主義」の下で、毎週読者の興味を引きつけ、勝敗の分かりやすいカタルシスを提供するための、極めて合理的なフォーマット選択であった。

2. 90年代ジャンプの過渡期という時代背景
『マキバオー』終盤が描かれた90年代後半は、『SLAM DUNK』や『ドラゴンボール』といった巨塔が相次いで終了し、『ONE PIECE』が登場する直前の過渡期にあたる。編集部は新たなメガヒットを模索しており、既存のジャンルに「ジャンプ的」なバトル要素を掛け合わせる実験的な試みが奨励されやすい土壌があった。感動的な競馬ドラマで一つの頂点を極めた『マキバオー』が、さらなる連載継続のために、ジャンプの成功法則であるバトル要素を大胆に取り入れるという判断は、商業的な必然であったと言えよう。

第2章:奇想天外なレースの記号論―「内面の可視化」という表現手法

ワールドカップ編の奇抜なレース設定は、単なる突飛な思いつきではない。それは、馬の能力や精神性といった「見えない内面」を「見える形」に変換する、高度なマンガ的表現手法であったと分析できる。

1. 障害物レースという「メタファー」
従来の競馬漫画は、ラップタイムや馬群での位置取り、騎手の心理描写などでレースの駆け引きを表現してきた。しかしワールドカップ編は、その抽象的な概念を物理的な障害物として具現化する。

  • ブリッツ戦(モンゴル)の「狭まるコース」: これは、レース終盤のスタミナ勝負で、生き残れる馬が絞られていくサバイバル状況そのものの可視化である。
  • ファラオ戦(エジプト)の「ピラミッド内部」: 過去の偉大な競走馬(ミイラ馬)の幻影という、血統や歴史のプレッシャーを、文字通り乗り越えるべき迷宮として描いている。

このように、精神的な駆け引きや根性論を、視覚的にダイナミックな障害物レースに置き換えることで、読者に直感的な興奮とカタルシスをもたらした。これは、スポーツ漫画における「必殺技」の概念を競馬に持ち込む試みでもあった。

2. アンカルジアの「ワープ」―究極の末脚の記号化
ラスボス・アンカルジアが見せる、瞬間移動したかのような末脚。これは、現実の競馬でサンデーサイレンス産駒、特に後のディープインパクトが見せた「飛ぶような走り」という異次元の能力を、漫画的誇張の極致として表現したものだ。現実の言葉では説明不能な才能を「ワープ」という記号で表現することにより、その絶望的な強さを読者に体感させた。これは、リアルな描写の放棄ではなく、リアルの持つ「異次元性」を表現するための、最も効果的なフィクションだったのである。

第3章:つの丸という作家性―パロディとジャンルの脱構築

この大胆な作風転換を可能にした最大の要因は、作者・つの丸氏の特異な作家性にある。

1. シュールなギャグとシリアスなドラマの共存
つの丸作品は、デビュー作『モンモンモン』から一貫して、不条理でシュールなギャグと、胸を打つシリアスなドラマを奇跡的なバランスで同居させてきた。『マキバオー』の根幹設定である「人間と会話し、うんこをするカバのような馬」自体が、すでにリアル路線からの逸脱であり、ファンタジーである。ワールドカップ編は、この作品が内包していたファンタジー性を、物語のクライマックスで一気に解放した結果と見ることができる。

2. 「ジャンル」への批評的視点と脱構築
ワールドカップ編は、単なるバトル漫画化ではなく、「競馬漫画」ひいては「少年ジャンプ漫画」というジャンルそのものへのパロディであり、批評的な脱構築の試みであった。
『魁!!男塾』を彷彿とさせる障害物レースは、当時のジャンプに溢れていたバトル漫画の様式美を意図的に借用し、それを競馬の文脈に持ち込むことで、両者のジャンル的お約束を浮き彫りにする。馬が必殺技を叫び、ありえないコースを走る姿は、「そもそも馬が喋るこの漫画で、今更リアルさを問うのか?」という、作者から読者への批評的な問いかけとも読める。

この意味で、ワールドカップ編は、感動的な競馬漫画というジャンルの「皮」を自ら脱ぎ捨て、その内部に潜んでいたジャンプ漫画の構造と、つの丸作品のシュールな本質を露わにする、自己言及的なクライマックスだったのである。

結論:迷走を超えて、ジャンルの地平を切り拓いた挑戦

『みどりのマキバオー』終盤の展開は、連載当時は賛否両論を巻き起こし、「迷走」と見なされることも少なくなかった。しかし、本稿で論じてきたように、その背景にはジャンプというシステムの商業的要請があり、それを逆手に取ったマンガ表現の革新と、ジャンルの枠組み自体を問い直す作者の批評的知性が存在した。

ワールドカップ編は、「迷走」ではなく、感動の動物物語という出発点から、ジャンプ的バトル漫画の様式を通過し、最終的に「マキバオー」という他に類を見ないジャンルを確立するための、必然的な進化の過程であった。続編『たいようのマキバオー』で、徹底してリアルな地方競馬の世界を描けたのも、この『みどり』の終盤でフィクションとしての競馬表現を極限までやり切ったからこそ可能になった、創造的帰結と言えるだろう。

『みどりのマキバオー』は、単に感動的な競馬漫画なのではない。それは、商業主義と作家性のスリリングな緊張関係の中から生まれ、漫画というメディアが持つ表現の可能性と、ジャンルという枠組みがいかに破壊され、再構築されうるかを示した、日本の漫画史における一つの重要なケーススタディなのである。この”迷走”と評された終盤こそ、作品の価値を不滅のものにした、最もラディカルで、最も「マキバオーらしい」挑戦だったのだ。

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