タイトル: 【解説】「良太は弟を殺した」――ネットを揺るがす一文の正体と、その“わからなさ”との向き合い方
導入: 読者の心を掴んで離さない、謎の一文への「知的挑発」
「良太は弟を殺した」――。
インターネットの片隅で、このあまりにも衝撃的な一文が、多くの漫画読者の心をざわつかせています。「どういう感情で読めばいいのか分からない」「この一文のせいで物語のすべてが分からなくなった」といった戸惑いの声が、今もなお語り継がれています。
人気プラットフォーム「ジャンプ＋」などで多様な作品に触れる機会が増えた現代において、読者はより洗練された物語体験を求める一方で、既存の物語論や感情移入の枠組みでは捉えきれない作品にも遭遇します。このフレーズは、まさにそうした現代の読書体験を象徴するものです。
本記事の結論から述べましょう。読者が抱く「どういう感情で読めばいいのか分からない」という戸惑いは、決して読解力の欠如や作品の欠陥を意味するものではありません。むしろ、それは漫画家panpanya氏が意図的に仕掛けた、極めて高度な「知的挑発」なのです。この一文は、従来の物語が提供してきた感情的カタルシスや明確な意味付与を意図的に排し、読者を「理解不能な現実」あるいは「アブジェクト（Abject）な領域」へと突き放すことで、作品に秘められた真の深層と対峙させ、より根源的な思考を促すための重要なギミックとして機能しています。この「わからなさ」こそが、作品の唯一無二の価値であり、現代におけるアートの機能の一端を示しているのです。
本稿では、この謎めいた一文の出典を明らかにし、なぜこれほどまでに読者の感情をかき乱すのかを深掘りします。そして、この「分からなさ」という読後感を、文学的・心理学的・哲学的な視点からどう解釈し、向き合えば作品をより深く味わえるのか、そのヒントを探っていきます。
主要な内容
1. 衝撃の一文の出典は？ – panpanya作『パーフェクト・フィッシュ』と、その文学的背景
この「良太は弟を殺した」という一文は、漫画家panpanya氏による短編作品『パーフェクト・フィッシュ』に登場します。この作品は、短編集『蟹に誘われて』に収録されています。
■ panpanya氏とその作風：日常の剥き出しの不条理を描くアブジェクトの美学
panpanya氏は、日常と非日常がシームレスに融合した、独特の世界観を描くことで知られる、現代日本を代表するオルタナティブ漫画家の一人です。その作風は、写実的かつ緻密に描き込まれた背景画と、対照的にデフォルメされたシンプルなキャラクターデザインの組み合わせに特徴があります。物語はしばしば因果律を無視したような不条理な展開を見せ、明確な結論や道徳的判断が提示されないまま幕を閉じます。
彼の作品には、しばしばフランスの哲学者ジュリア・・クリステヴァが提唱した「アブジェクト（Abject）」の概念に通じる側面が見られます。アブジェクトとは、「私」と「非私」の境界を脅かし、吐き気や嫌悪感を催させるような「忌まわしいもの」「排除されたもの」を指します。しかし、それは同時に、私たち自身の起源や無意識に触れる、言語化困難な深淵でもあります。panpanya作品における日常の微細な崩壊、理解不能な残酷さ、そして感情の欠如は、まさにこのアブジェクトな領域を読者に体験させ、理性では処理しきれない感覚を呼び起こすのです。これは既存の物語の枠組みから逸脱し、読者に根源的な問いを投げかける、極めて現代的な文学表現と言えます。
■ 『パーフェクト・フィッシュ』の概要：唐突な「暴力」と「無感情」の共存
物語は、主人公の女性が「魚を完璧な骨格標本のようにきれいに食べること」に異様なこだわりを見せるところから始まります。彼女は完璧な食べ方を追求する中で、ふと、弟「良太」との過去を回想します。そして、物語が大きく動くわけでも、感情的な描写が挿入されるわけでもなく、まるで天気予報を読み上げるかのように、「良太は弟を殺した」という一文が挿入されます。
この唐突さと非情景的な描写こそが、読者を混乱の渦に突き落とす最大の要因となっています。通常、このような極めて暴力的で倫理を揺るがす事実は、物語の中心となり、登場人物の深い感情や葛藤を伴って描かれるはずですが、ここではそれがまるで何でもないことのように扱われます。この「暴力と無感情の共存」は、読者の既存の物語への期待を裏切り、理解不能な空白を生み出すのです。
2. なぜ「どういう感情で読めばいいのか分からない」のか？ – 物語論的・心理学的な分析
読者が抱く「分からなさ」の正体は、単なる情報の欠如にとどまらず、従来の物語論や感情移入のメカニズムを意図的に解体する、高度な戦略によって生み出されています。主に以下の3つの要素が複雑に絡み合っています。
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① 感情アークの欠如と文脈の断絶：読者の「共感」を剥奪する構造
一般的な物語は、登場人物の感情的な起伏（感情アーク）を通じて読者の共感を誘い、物語を駆動させます。「弟を殺した」という事実は、通常であれば、悲しみ、後悔、怒り、恐怖といった強烈な感情を伴う、物語のクライマックスや転換点となるべきです。しかし、『パーフェクト・フィッシュ』では、この極めて重い事実が、主人公の「魚をきれいに食べたい」という日常的な執着と並列に、感情的な装飾を一切伴わずに語られます。この感情アークの徹底的な排除と、日常と非日常の文脈の断絶は、読者の感情移入を意図的に阻害します。読者は、感情的にどう反応すればよいか、どの感情を基準に物語を理解すればよいかという指針を失い、宙吊りの感覚に陥るのです。これは、物語が提供するはずの「意味の安定性」を根本から揺るがす行為であり、読者に能動的な意味生成を強いるものです。 -
② 事実性の曖昧さと「信頼できない語り手」：リアリティの基盤の崩壊
この一文は、本当に「事実」なのでしょうか。それとも、主人公の妄想、精神的な不安定さ、あるいは何らかの比喩表現なのでしょうか。panpanya作品はこうした解釈の扉をすべて開けたままにしており、読者は確固たる足場を見つけられません。
物語論において、「信頼できない語り手（Unreliable Narrator）」とは、その語りが事実と異なる、あるいは歪められている可能性のある語り手を指します。この作品では、主人公の視点を通して語られる「良太は弟を殺した」という一文が、その真偽を読者に問いかけます。これは、読者が物語から得られる「リアリティの基盤」を根本から揺るがすものであり、作中で提示される情報に対する「不信の停止（Suspension of Disbelief）」どころか、むしろ「不信の開始」を促します。読者は、与えられた情報が真実であるかどうかを常に疑い、作品全体を再構築しようと試みざるを得なくなるのです。 -
③ コズミックホラー的な恐怖と「理解不能な理（ことわり）」の提示
H.P.ラヴクラフトに代表されるコズミックホラーは、人間が理解し認識できる範囲を超えた、宇宙的で巨大な存在や法則に直面した際の根源的な恐怖を描きます。それは単なる怪奇現象ではなく、人間の理性や倫理観、存在そのものが無力化されるような「絶対的な他者」や「理解不能な理」の顕現です。
『パーフェクト・フィッシュ』における「良太は弟を殺した」という一文は、まさにこのコズミックホラー的な「理解不能な理」として機能しています。理由も感情も介さず、ただ存在する絶対的な事実としての暴力。それは、私たちの倫理観や物語の常識が全く通用しない領域であり、人間の理解を超えた「何か」が、平然と日常に存在しうるという戦慄を読者に与えます。このぞっとするような感覚は、ラヴクラフトが描いたような「人間中心主義の崩壊」に通じるものであり、私たちの認知能力の限界を試すものです。
3. この読後感との向き合い方 – ポストモダンアートとしての3つの読解アプローチ
では、この奇妙で心をかき乱す読後感と、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。ここでは、ポストモダンアートの鑑賞にも通じる3つのアプローチを提案します。
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アプローチ1：体験として「味わう」 – 意味の不在における美的感覚の探求
無理に理解しようとしたり、白黒つけたりするのをやめ、「分からない」という感覚そのものを楽しむ姿勢です。これは、伝統的な物語が提供する「明確な意味」や「カタルシス」の追求から離れ、現代アートにおける「体験」や「感覚」に焦点を当てる鑑賞法と共通します。panpanya作品の魅力は、論理的な整合性よりも、その独特の雰囲気、緻密な描画、そして意図的に設けられた「空白」にあります。この不条理な世界に迷い込み、戸惑い、考えさせられるという「読書体験」そのものが、作者の提供する芸術の一部だと捉えることで、新たな美的楽しみ方が見えてきます。これは、仏教における「無我」や「空」の概念にも通じる、意味の不在を受け入れる「禅的な読解」とも言えるでしょう。 -
アプローチ2：象徴（シンボル）として「読み解く」 – 無意識への探求とパーソナルな意味付け
作中の要素を、何かの象徴として深層心理学的な視点から解釈してみるアプローチです。- 「完璧な魚の食べ方」への執着は、主人公が制御不能な過去（弟の死）から目を背け、コントロール可能なものへ意識を集中させるための強迫観念的な防衛機制かもしれません。あるいは、完璧な秩序を求めることで、内面の混沌やトラウマを鎮めようとする試みと解釈できます。
- 「良太が弟を殺す」という行為は、文字通りの殺人ではなく、子供時代の純粋さや無垢な可能性を、自らの手で葬り去ってしまったことの比喩的表現と捉えることも可能です。弟が主人公自身の「過去の自己」や「失われた側面」を象徴しているとすれば、この行為は「自己破壊」や「過去との決別」を意味するかもしれません。フロイトやユングの深層心理学における自己の分裂、影の側面といった概念に接続し、物語が個人の無意識下での葛藤を視覚化したものとして読み解くことができます。
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アプローチ3：作品群として「探求する」 – 作家論と現代サブカルチャー文脈での位置づけ
panpanya氏の他の作品（例: 『枕魚』『おもちゃ』など）も手に取り、共通するテーマやモチーフを探す方法です。氏の作品には、「失われたものへのノスタルジー」「日常に潜む狂気」「境界線の曖昧な世界」「時間と記憶の不安定さ」といったテーマが繰り返し登場します。『パーフェクト・フィッシュ』を単体で捉えるのではなく、作家が描き続ける大きな世界の一部として位置づけることで、この一見突飛な一文に込められた意図や背景が、ぼんやりと見えてくる可能性があります。
また、現代のサブカルチャーにおける「考察系コンテンツ」の隆盛という文脈で捉えることも重要です。明確な答えが提示されない不条理な作品は、読者間に活発な議論や解釈の共有を促します。panpanya作品が持つ「分からなさ」は、SNS時代におけるコンテンツの消費形態と共鳴し、読者が能動的に作品に関わる「参加型アート」としての機能も果たしていると言えるでしょう。
結論: 「分からなさ」が切り拓く、新たな物語の地平
「良太は弟を殺した」という一文と、それが引き起こす「どういう感情で読めばいいのか分からない」という読後感。それは、決して読解力の欠如や作品の欠陥などではありません。むしろ、既存の物語の枠組みを揺るがし、読者に能動的な思考と解釈を促し、物語の世界に深く引き込むための、極めて高度な「知的仕掛け」であり、ポストモダンアートとしての挑戦状なのです。
panpanya氏の作品は、明確な答えを提示せず、読者一人ひとりの心に異なる波紋を広げます。この「分からなさ」や「割り切れなさ」こそが、現代社会における「意味の不確実性」や「情報の過剰性」を反映しており、私たち自身が直面する現実の不条理と共鳴します。それゆえに、彼の作品は単なるエンターテインメントに留まらず、私たちの認識の限界や、人間の存在そのものへの深い問いかけを促す「思考実験」としての価値を持つのです。
もしあなたがこの一文に心を揺さぶられたのなら、その戸惑いを大切にしてください。それは、あなたが作品の深層に触れ、既存の思考の枠を超えようとしている証拠です。この記事で紹介した多角的なアプローチを参考に、あなただけの『パーフェクト・フィッシュ』を見つける旅に出てみてはいかがでしょうか。そこには、忘れがたい読書体験と、新たな知的発見が待っているはずです。この「分からなさ」こそが、現代の物語が切り拓くべき、新たな地平を示しているのかもしれません。
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