【考究】寶月詠子はなぜ恐ろしいのか?―目的合理性、認知バイアス、共依存から解き明かす現代的ヒロインの狂気
2025年07月21日
序論:恐怖の正体 ― 合理性の皮を被った非人間性
現代オカルトホラーの傑作『ダークギャザリング』において、数多の悪霊以上に読者を震撼させる存在、それが寶月詠子(ほうづき えいこ)である。可憐な容姿と主人公・幻燈河螢多朗(げんとうが けいたろう)への献身の裏で、彼女が見せる常軌を逸した行動は「霊より怖い」と評される。本稿は、この「恐怖」の正体を解き明かすことを目的とする。
結論から述べよう。寶月詠子の恐怖は、単なるサイコパス的な狂気に起因するものではない。それは、①マックス・ウェーバーの言う「目的合理的行為」の極端な発露、②「神の目」という特異な認知能力がもたらす深刻な共感性のバイアス、そして③螢多朗への愛情が変質した「共依存的支配」、この三要素が複合的に絡み合うことで生まれる、極めて論理的で、だからこそ底知れない「非人間性」に根差している。彼女は、読者の倫理観そのものを揺さぶる「道徳的曖昧さ」の化身であり、本作の恐怖と魅力を構造的に深化させる最高のトリックスターなのである。
第1章:目的達成の悪魔 ― 功利主義がもたらす「合理的な狂気」
詠子の行動原理は「螢多朗の呪いを解き、元凶の霊に復讐する」という一点に集約される。この目的を達成するため、彼女は社会学者マックス・ウェーバーが定義した「目的合理的行為」―すなわち、目的達成のために最も効率的な手段を計算し、実行する行為―を徹底する。しかし、その合理性は常人の倫理観を遥かに逸脱する。
1-1. 功利主義的判断の歪み
詠子の意思決定は、一見すると「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義(Utilitarianism)に似ている。彼女にとっての「幸福」とは、螢多朗と自身の呪いが解かれる未来であり、その実現のためなら、螢多朗自身や夜宵を危険な心霊スポットへ連れて行くといった「必要悪」を躊躇しない。
問題は、彼女の計算における「幸福」の定義が極めて私的であり、他者の恐怖や生命の危険といったコストを著しく低く見積もる点にある。これは、目的と手段の倒錯である。本来、人を守るための手段であるはずの霊の捕獲が、それ自体が目的であるかのように遂行される。危険度Sランクのスポットで目を輝かせる彼女の姿は、強すぎる目的意識が、過程における人間的感情や倫理観を完全に麻痺させていることを示している。これは、組織や国家が「大義」の名の下に非人道的な決定を下す際の心理メカニズムと構造的に酷似しており、読者はそこにリアルな恐怖を感じるのだ。
1-2. 「狂気」ではなく「超合理性」
詠子の怖さは、感情的なヒステリーや衝動的な暴力に由来しない。むしろ、彼女は常に冷静で、分析的で、最適解を導き出す。その「最適解」が、常人には「狂気」としか映らないのだ。悪霊を「戦力」とみなし、その危険度と有用性をパラメータとして管理する姿勢は、恐怖という感情を排した純粋なリソース管理の思考である。彼女の行動は感情の欠如ではなく、強すぎる執着という感情を起点としながら、その実現プロセスにおいては感情を完全にツールとして扱う「超合理性」と呼ぶべきものであり、その論理的整合性こそが彼女の非人間性を際立たせている。
第2章:見えすぎる目の孤独 ― 「神の目」が歪める共感と倫理
詠子の特異な合理性を支える物理的基盤が、霊的な存在の本質を見抜く「神の目」である。この能力は、彼女の世界認識を根本から変容させ、他者との間に深刻な断絶を生んでいる。
2-1. 認識の非対称性(クオリアの断絶)
哲学で言う「クオリア」(感覚質)の概念を借りるなら、一般人が心霊スポットで感じる「不気味さ」や「恐怖」というクオリアと、詠子が感じるそれは全く異なる。我々が認識できない霊の姿形、能力、危険度を、彼女は具体的な「データ」として視認できる。その結果、詠子にとって霊は未知の恐怖ではなく、分析・評価・利用すべき「観測対象」となる。
この認識の非対称性は、他者の恐怖に対する共感能力の著しい欠如を招く。心理学における「心の理論(Theory of Mind)」、すなわち他者の心的状態を推測する能力が、霊が絡む事象において著しく機能不全に陥るのだ。螢多朗が霊障に苦しむ姿を見ても、彼女は彼の「恐怖」に寄り添うのではなく、その現象をデータとして収集し、次なる戦略の糧にしようとする。それは彼女にとって悪意ではなく、自らの認識世界に準じた最も「合理的」な反応なのである。
2-2. 祝福という名の呪い
「神の目」は、霊との戦闘において圧倒的なアドバンテージをもたらす「祝福」である。しかし同時に、それは彼女を常人の感覚から引き離し、孤立させる「呪い」でもある。彼女が見ている世界は、他の誰とも共有できない。この根源的な孤独が、彼女をさらに自己完結的な論理の世界へと閉じ込め、人間的な共感を育む土壌を奪っていく。彼女の恐ろしさとは、この「見えすぎる」が故の孤独と、そこから生まれる他者への想像力の欠如に深く根差している。
第3章:献身という名の支配 ― 螢多朗への執着に潜む「共依存」の構造
詠子の全ての行動は、螢多朗への深い愛情と献身から発せられている。しかし、その関係性は健全な愛情とは言い難く、心理学的な「共依存(Codependency)」の構造を色濃く反映している。
3-1. ケアと加害のパラドックス
共依存とは、相手の世話を焼くことで自己の存在価値を見出す、歪んだ人間関係を指す。詠子は螢多朗の「呪われている」という問題に対し、自らを「解決者」として位置づけることで、彼との強固な結びつきと自己のアイデンティティを確立している。
この構造は、時に「代理ミュンヒハウゼン症候群」のメタファーとしても解釈可能だ。この症候群は、養育者が被保護者を意図的に傷つけ、その看病をすることで周囲からの同情や関心を得ようとする精神疾患である。詠子は螢多朗を直接傷つけはしない。しかし、彼女は螢多朗を「呪いを解くための最高の霊媒体質」として危険な場所に引き込み、彼が霊障で苦しむことを戦略に組み込む。螢多朗を危険に晒す「加害」と、彼の呪いを解こうと奔走する「ケア」が、一人の人間の中で矛盾なく両立している。この倒錯した献身こそ、彼女の愛情が孕む最も危険な側面である。
3-2. 愛情という名の呪縛
「螢多朗のため」という大義名分は、彼女のあらゆる過激な行動を正当化する。しかし、その深層には「螢多朗が呪われている状態」こそが、彼女が彼にとって不可欠な存在であり続けるための条件である、という無意識の願望が潜んでいるのではないか。彼女の献身は、螢多朗を救うと同時に、彼を「詠子なしでは生きられない存在」として自らの影響下に縛り付ける「呪い」としても機能している。この愛情と支配が分かち難く結びついた関係性が、読者に言い知れぬ不気味さと心理的圧迫感を与えるのである。
結論:現代社会の寓話としての「寶月詠子」
寶月詠子の恐怖は、彼女が持つ「目的合理性の暴走」「認知バイアスによる共感の欠如」「共依存的な支配欲」という三つの要素が織りなす、極めて現代的なキャラクター造形に由来する。彼女は、従来のホラー作品における「ヤンデレ」や「ファム・ファタール」といった類型には収まらない。なぜなら、彼女の行動は病的な執着や悪意だけでなく、徹頭徹尾「合理的」な計算と「献身的」な愛情によって駆動されているからだ。
このキャラクターは、我々の生きる現代社会の寓話でもある。効率や成果を絶対視するあまり、プロセスにおける人間性が切り捨てられる場面。自らの専門分野や価値観に固執し、他者の視点を想像できなくなる「専門家の呪い」。そして、愛情や善意の名の下に行われる、無自覚な支配と依存。詠子の内なる恐怖は、我々自身の社会や、あるいは我々自身の内にも潜んでいるかもしれない「合理性の罠」を映し出す鏡として機能している。
寶月詠子は、単なる「怖いヒロイン」ではない。彼女は物語の強力なエンジンであり、読者の道徳観を挑発し、恐怖の本質を問い直させる触媒である。彼女が次に選択する「合理的」な一手は何か。その予測不能な危うさこそが、『ダークギャザリング』という作品に比類なき深みと中毒性を与えている最大の要因と言えるだろう。

OnePieceの大ファンであり、考察系YouTuberのチェックを欠かさない。
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